江戸時代の農村は、自給自足経済を基本とした体制の上になりたっていた。しかし江戸時代も中期以降になると農業生産が上昇し、農民の中には、年貢米や自家用飯米をはるかに上廻る生産をあげ、その余剰生産物を換金化し、衣料雑貨その他の消費物資や、肥料・農具、あるいは雇人の賃金などの生産費用に充てるようになってくる。これがついには、土地の購入は勿論、販売を目的とした農産物の生産や加工生産に発展していった。
越谷地域は、江戸近郊農村であり、また宿場をひかえた日光道中筋の農村でもあったので、他の一般農村にくらべ、早くから商品生産が展開されていたとみられる。したがって、農民は好むと好まざるとにかかわらず、貨幣経済の渦中にまきこまれ、零細な農民は農間の余業や職人稼ぎで貨幣を取得した。
〔一八七〕〔一八八〕は、いずれも享保年間の文書で、前者は酒の小商ひを無届で始めたための詫証文、後者は不法者に酒を売ったために、酒商売を停止させられた時の証文である。しかしこうした規制も効果なく、その後在郷の商人や職人が加速度的に増大して村落構造に大きな変化をもたらした。幕府はこうした傾向に対処し、公私領の別ない鷹場領域の商人や質屋を対象に、寛政六年(一七九四)鳥見役人による調査を実施したのをはじめ、しばしば厳重な調査をくりかえした。その都度、村々における新規の業者や無届の業者が取締りの対象となっており、農村における商工業者は常に幕府の監視のもとにあった。その後文政十年(一八二七)関東取締出役と直結した改革組合村が結成されるに及び、これら商工業者及び農間渡世人の取締りも改革組合を通じてさらに徹底したものになった。
〔一九八〕〔一九九〕〔二〇〇〕は、いずれもこうした改革組合を通じた農間渡世調査の晝上げである。酒・米穀・太物・荒物・古着・金物・菓子・肥料・小間物等々さまざまな業種の商人が広汎に存在し、なかにはすでに、宝暦~明和期(一七五一~七一)から渡世を始めた者もいる。幕府はこうした調査資料をもとに、農村における商人の増大を規制し、かつ諸物価や諸賃金の統制をこころみようとした。幕府のこうした努力にもかかわらず、商品生産は着々と進行し、〔一九〇〕の絞油業や、〔一九二〕の葉藍生産の展開、とくに〔二一三〕にみられる米の商品化は、水田稲作地帯の当地域における大きな特色であった。
農村における商品作物の広汎な展開は、まず農業の集約化とともに、肥培管理の充実による生産力の向上がなければならない。つまり多量の施肥や金肥の導入を必要とした。〔一九五〕〔二〇三〕はいずれも当時干鰯や飴粕が肥料として一般的に使用されていたことを示しており、〔二〇七〕〔二一〇〕によれば、江戸の下肥もいわゆる肥舟でさかんに当地域に搬入されていたことが知れる。
こうして米の商品化をはじめとする貨幣経済が、農村に普遍化すると、農村内部の階層分化も進行し、地主小作関係の矛盾が顕在化する。したがって〔一九一〕のように、不作時における小作層の小作料引下げ要求に対抗し、地主層が連合して議定の上、小作料の引下げを阻止しようとする動きが顕著となった。
〔二〇二〕は、御膳細糯御用取扱人に対し、苗字帯刀を許可した幕府の申渡書である。すでに述べたごとく当地方は水田稲作の生産地として知られ、とくに「越谷米」は江戸市場においても上質な等級米に格付されている。また「太郎兵衛」と称された上質の糯も生産され、とくに「御膳細糯」は将軍家御用の餅に供されていた。この御用取扱人が前述の苗字帯刀を許された瓦曾根村の名主中村氏であった。
〔二〇五〕は増森村の晒業者の収支勘定帳である。この家は、天保年間から晒の生産をはじめたというが、最近までこの地区は古利根川を利用した、晒業の盛んな土地であった。
〔二一二〕は、上間久里村の秋田盧と称された料理屋(上間久里上原家)の、大鯰の天ぷら・うなぎの蒲焼・酒・お茶漬などの勘定書である。また〔二一四〕は大沢町酒屋(大沢町中島家)の木版刷の広告で、大変珍らしい史料である。