本項には質地・小作・地借・店借・借金・貸附金・身代金・売掛金・無尽・借米などの、貸借関係史料を収めた。
江戸時代は田畑の永代売買禁止が、土地制度の最大の特質であったので、年貢その他家計に差支え、または何らかの事情で資金を必要とした際は、田畑を金主に質地〔二一五〕という形で預け入れて融資をうけるのが一般的であった。したがって質地証文は各家文書のなかでもきわめて多く見うけられる。
質地に入れた田畑は、別小作〔二三〇〕〔二三二〕〔二三五〕と言って、質受人がこの質地を他人に耕作させることもあったが、直小作〔二三一〕と称し、質入主が引続いてこの質地を耕作することも広く行なわれていた。このほか所持地あるいは質受地を家守〔二一九〕、あるいは地守〔二四三〕という形で他人に預けることもあるが、本項に収められた史料は、いずれも小作と同義のものである。なお小作には、小作地の田畑に課せられた年貢諸役も、小作人が一切負担する場合と、地主が年貢諸役を負担し、小作人は作徳と称した小作料を地主に納めるだけの場合があった。勿論後者の小作料は前者よりも高額であるのが普通である。
〔二二五〕は、質受主の不法を訴えた、明和二年(一二六五)の文書であるが、当時の地主小作の関係がきわめて明瞭に察知できる史料である。さらに〔二四九〕〔二五〇〕によって、これら小作人の立場がどのように弱いものであったかを、より一層知ることができよう。
〔二四〇〕〔二四一〕は、地借・店借のそれぞれの証文である。地借店借は普通無高の者を言い、身分的にも百姓とは区別されていた。この無高層は、年代が下るにしたがって増加の傾向が見られるが、この無高層の村内の比率は農村における階層分化の進行を見る上の尺度ともみられている。
〔二二四〕は、金子借用証文であるが、これには保証人の印鑑だけで田畑等の担保がない。その反面利足が高いのが一般的である。この史料の場合は、貸主が寺院になっているが、当時は檀家などの拠金を資金にして貸付を行ない、寺院の修復などの資金をこの利金で調達するという方法が広く行なわれていた。
また農民が借財する場合は、質地という方法があるが、農地を持たない者が借財するには、金主に一定期間労力を提供する約束で、必要な金銭を前借する方法が行なわれていた。これを身代金と言う。〔二三三〕は娘を身代として奉公に出すが、奉公が務まらないため、身代金を返済するかわりに居宅を譲り渡した例である。〔三三八〕は、同じく娘を身代奉公に入れて前借したが、娘が病気になったので、病気がなおるまで前借金の返済は猶予してほしいという例である。
これまで見てきたように、一般庶民の金融方法には、質地・借金・身代金などがあるが、このほか頼母子講・相続講などと称した、無尽による農民相互間の金融方法があった。〔二四五〕は、農作物の不作により、相続講を一会休講するという申合せであり、〔二五二〕は、頼母子講設立の議定書である。この議定によって、当時の無尽がどのような方法で行なわれていたかを知ることができる。
〔二二三〕〔二二八〕は、領主が支配地内の農民に借金をした際の借用証文と、借用金に対する村々出金割合書である。前者は財政窮迫の旗本万年佐左衛門の西方村万年領農民に対する金子借入であり、後者は忍藩柿ノ木領八か村に対する忍藩主の借入である。いずれも年貢米引当による借金返済の条件であるが、忍藩の場合、〔二二八〕の一件記録によると、この際の借金の返済期限が延期されている。農民は領主の約束違反を責めて、江戸藩邸に越訴を試みようとしたり、貢租米の差押えを強行して抵抗するが、結局は返済期限の五か年延期を認めざるを得なかった。史料はこの間の経過や、農民と藩役人とのやりとりなどを具体的に伝えてくれる。
一方農民が幕府から貸附金の拝借をうける場合もあった。この貸附金とは、幕府の貸出金制度の一種で一般武士や農民に対し、その生活や生業資金の融資を目的としたものであった。江戸では関東郡代役所が取扱かう馬喰町御用屋敷貸附金をはじめ、猿屋町会所貸附金などがあった。〔二三一〕〔二三四〕がこの幕府貸附金拝借の史料である。拝借をうける時は、拝借金額に相当した田畑を担保に入れているが、この農民の拝借金は、領主の借金申入れにそのまま流用される場合が多い。後者は六ツ浦藩への融通金に用いられたことが明らかである。〔二二六〕も、この貸附金をまた関東郡代伊奈家が逆に借用している一例とみられよう。