越谷地域を含めた武蔵東部沖積地帯に、かつて太日川(渡良瀬川、現江戸川筋)・利根川(現古利根川)・荒川(現元荒川)の各本流が集流していた。したがってこの地帯の農地は、常に洪水の危機にさらされ、きわめて不安定な状態であった。関東入部後の徳川氏は、この不安定な沖積地の治水に努力したが、なかでも利根川・渡良瀬川の東遷工事と、荒川の西遷工事が特筆されよう。これにより、武蔵東部の沖積地から、利根・荒川の本流がきりはなされ、この地帯の開発が促進された。
こうした地理的条件を背景に開発が進められた越谷地域の用水関係を、〔二八二〕を参考にしながらみると次のごとくである。ます荒川筋の瓦曾根村には、すでに慶長年間(一五九五~)溜井が設けられており、この溜井から引水した八条用水路・四か村用水路が開さくされていた。しかし寛永六年(一六二九)の荒川瀬替により、その用水量は激減した。幕府はこれに対処し、庄内川(太日川筋)から新たに中島用水路を開さくし、この用水を瓦曾根溜井に導入した。中島用水によって川水が確保された瓦曾根溜井から、この頃さらに西葛西用水路が開発された。この中島用水は、その後宝永二年(一七〇五)の水害により用水路の機能がそう失した。以来中島用水筋村々は万治三年(一六五〇)開発による幸手用水(利根川筋本川俣からの取水)の補給にたよっていた。しかし慢性的な用水不足に悩み、しばしば中島用水の模様替えを幕府に訴願した。幕府は享保四年(一七一六)上川俣から新たに用水路を疏さく、これを幸手用水に合流させて水量を確保した。以来この用水は葛西用水と称され、幸手領・新方領・松伏領・二郷半領・八条領・谷古田領・淵江領・東葛西領・西葛西領計一〇か領二六七か村、高一一万九八七七石余の農地を灌漑する一大用水となった。
一方寛永六年、入間川筋に瀬替となった元荒川筋は、熊谷扇状地の湧水と、星川等の余水の流れが用水源となっていた。当地域では岩槻領末田溜井から引水した末田大用水・須賀用水により、主に出羽・荻嶋・大袋各地区の灌漑用水に用いられていた。
また、足立・埼玉の郡界を流れる綾瀬川は寛永年間にも改修が行なわれているが、とくに延宝八年(一六八〇)の改修は、川筋村々にとっては大きな影響があった。すなわちこの改修は、綾瀬川の下流小菅村から隅田村までを直道に疏さくする工事であったが、その際淵江領久左衛門新田から曲流する一筋が締切られ、一本化した綾瀬川は、上流の一部を除き悪水落しの排水路になった。このため綾瀬川から取水していた谷古田領の用水は、この年瓦曾根溜井から引水することになった。
以上が農地開発にともなう当地域における用水関係の概略である。
〔二五三〕は、延宝三年(一六七五)に開発された本所上水道に関する一件記録である。本所上水道は、当時江戸の新開地として発展してきた本所・深川地帯の住民に、飲料水を供給するため疏さくされたものである。史料によれば、この上水は瓦曾根溜井から引水したが、玉川上水と異なり地形的な悪条件があって失敗におわり、享保十五年(一七三〇)廃止された。なおこの故道は、享保十八年、西葛西用水併用の淵江領久左衛門新出以南の用水路を除き新田に再開発された。
〔二五五〕は、延宝八年(一六八〇)の、元荒川筋袋山村ほか四か村の新川堀替願である。当時元荒川は袋山村を迂廻して湾状に屈曲流していた。このため川筋村々は常時の水難所であったという。なお新川掘替願はこの後も続けられたとみられ、宝永三年(一七〇六)幕府は願いの通り屈曲部を締切り、流路を直道化した。
〔二六四〕は、享保四年(一七一九)の上川俣筋用水路開発による葛西用水成立に関する記録である。史料によれば、この用水路は羽生領上川俣から長さ千間余の堀を疏さくして幸手用水路に合流させ、さらに上高野溜井(琵琶溜井)に圦樋を増設して、下流の用水量を増大させた。この際の工事入用金は、受益各領の村々にも割当てられたことが知れる。またこの葛西用水成立にともない、受益各領による普請組合が結成されたが、この組合は前記の如く一〇か領にも及んでいた。なお上川俣に敷設された取入口は、その後地形的な悪条件で取水が困難になり、宝暦四年(一七五四)に廃止となり、その後の葛西用水は本川俣の取入口一本によって賄なわれていた。
〔二六六〕は、葛西用水堀藻刈実施の幕府通達書である。これにより葛西用水路の藻苅が制度的に実施されるようになったのは、享保六年からであるのが知れる。また〔二六五〕によると、同年幕府入用金で葛西用水路の普請が行なわれたが、この普請には請負人が工事を担当していたことが知れる。参考ながら、この普請請負制度は、その後寛政六年(一七九四)に仕法替があり、以後普請取扱人は普請組合の年番惣代がこれに当ることになった。
〔二五六〕は元禄十三年(一七〇〇)の普請役高割請書である。普請人足や材料等の費用の割当ては、この頃までは家別割と言って一軒宛何程と割当てられていたが、石高の多い者と少ない者とでは、その負担の重さが違うので、次第に高割合にかえられていった。当村砂原村では、この高割になったのは元禄十三年であることが確認される。
〔二六七〕~〔二六九〕は、河川管理の職制に関する幕府通達の請書である。史料によれば、当地域における用排水及び堤防等の差配は享保十三年(一七二八)、四川奉行が担当することになったが、翌十四年にはさらに当地域の葛西用水も四川奉行の管轄に移された。また享保十七年には、古利根川・江戸川・綾瀬川・葛西用水等が、勘定奉行駒木根肥後守の担当になったことが知られる。
〔二五四〕〔二六一〕〔二七一〕〔二七三〕等は、いずれも用排水にかかわる村々の訴訟文書である。農耕を主とする村々にあっては、水利の諸問題は死活にかかわるものであり、用排水における上郷下郷の矛盾は常時対立を生んでいた。したがって村方文書のなかには水利に関する出入訴訟が数多くみられる。
〔二七八〕〔二八〇〕〔二八一〕は、藻苅や普請人足に関する組合議定である。用排水を含め、各河川の普請その他の作業は、一村を超えた共同作業を必要とするので、関係村々で組合が組織され、ことあるごとに共同作業の方法や規約などがとりきめられていた。このほか、用水取入れなどにも、番水のとりきめがなされているが、なかにはこの番水議定に違反して村役人から詫書〔二八七〕をとられる者もいた。
〔二八三〕〔二八四〕は、新方領排水堀の千間堀と、新方領大袋地区の須賀用水に関する天保八年(一八三六)の旧記書上げである。こうした記録類はその沿革を手っとり早く知る上で便利なものである。