交通

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 本項には、宿駅・伝馬・助郷、それに舟運に関する史料を収録した。

 越ヶ谷町は、大沢町を含め日光道中第三駅の宿場であるが、その宿場成立の年代は今の処詳らかではない。いずれにしろ寛永十三年(一六三六)以降の定例日光東照宮祭礼、寛永十九年(一六四二)以降の参勤交代制により、日光道の往来は頻繁になるが、これにつれて宿駅の機構が次第に整備されていったとみられる。かつ幕府においても、宿駅育成のために、早くから助成などの措置を講じていた。例えば越ヶ谷宿では、寛永十三年の将軍日光社参に際し米一五〇俵、寛永十九年の救恤資金として翌二〇年に金一八〇両、慶安二年の将軍日光社参に米一五〇俵をそれぞれ下付するなどの宿場助成策が確認できる。

 また、越ヶ谷町に二五人二五疋の常置人馬が義務づけられたのが明暦三年、さらに日光道の助郷が制度化されて、周辺二一か村が越ヶ谷町助郷に指定されたのが元禄九年(一六九六)のことである。なおこれらの事は『越谷市史』第四巻に所収した「大沢町古馬筥」や「伝馬」などの記録によっておよそは知ることが出きるので参照されたい。

 〔二九〇〕は、元禄十年の地子免許(屋敷地の免税)につき、翌十一年に定められた大沢町の地子免割合議定である。越ヶ谷宿は越ヶ谷町と大沢町の合宿であるので、一万坪の地子免は両町五千坪宛とし、さらにこの五千坪は伝馬屋敷一軒何坪、歩行役屋敷一軒何坪宛と割当てられた。この伝馬屋敷・歩行屋敷というのは、街道に面した家屋の間口の長さできめられており、伝馬役の数は株によって固定されていた。例えば越ヶ谷町の場合は伝馬屋敷百二〇軒半、歩行屋敷二一軒と定められ、これら伝馬株の所持者が伝馬役を負担し、町政に参加できる一人前の町民であった。その他は地借・店借と称され、身分的にも区別されていた。

 〔二九二〕は、享保十一年(一七二六)の、馬士傷害一件における示談金受取書である。伝馬交通においては、大名や貴人の公用旅行者の権威を後楯に、その家来や雇人達の不法行為が多く、年代の下る程その傾向は甚しくなった。しかし宿場役人や馬士に対する傷害行為や、不法行為を訴訟に持ちこんでも、結果的には、見舞金などで示談となり、一向こうした弊害は改善されなかった。『越谷市史』第四巻所収の「大沢猫の爪」などにも公用旅行者による暴行あるいは不法事件の幾例かが記載されている。逆に宿場の馬士や人足が、一般旅人に不法な行為をすることもあったし、荷物の運送中に間違いをおこすこともあった。〔三〇九〕は宿継人足が、状箱を運送中粗相により書状を汚損した際の一件記録である。

 〔三三一〕は問屋場で実務にたずさわる業務処理の下役が、勤務の過重を訴え、手当の引上げを示唆した宿場役人宛の願書である。運輸業務の役職には、その責任者である問屋と問屋を補佐する年寄役、その下役に馬士や人足を監督指示し、かつ実務を処理する帳付・馬指・人足指等がいる。この文書はこれら下役の陳情書であり珍らしい史料である。

 〔三〇四〕〔三二一〕は、断片的ながら、陸運に対置する舟運の史料である。この舟運は、前出〔九一〕明暦二年の日光道中六か宿高役免除願の中に、宿場財政を圧迫する江戸川舟運等の展開をとりあげているが、その後越谷周辺の諸河川においても舟運が発展し、その利用は急速に進行したと見られる。この舟運は主に年貢米の運送につかわれたが、商品流通の展開とともに商品物資の輸送にもひろく利用された。

 このほか本項には、伝馬助郷に関する史料も多く収めた。宿駅で調達する人馬の定数以上を必要とする場合、不足分の人馬を周辺の村々から徴発して補充したが、この宿駅の補充人馬を助郷と称した。助郷が制度化されたのは、日光道中では元禄九年(一六九六)である。この助郷村の種類には常時助人馬を義務づけられた定助郷(当初は大助郷と称された)、大通行の際臨時に指定される加助郷、定助郷でも一定の数以上を臨時に割当てられる増助郷、さらに定助郷の休役などでその替りを勤める代助郷の別があった。〔二九三〕〔二九四〕は、享保十三年(一七二八)に行なわれた将軍日光社参の際の加助郷に関するものである。将軍日光社参の際は日光道中を通らず、日光御成街道と称する岩淵から鳩ヶ谷・大門・岩槻に抜ける街道を通行した。越ヶ谷宿周辺の助郷村々は、この大通行に備えて、大門宿に当分加助郷を命ぜられた。またこの日光社参に随従する諸大名は、宿場の助郷とは別に、支配地領内の農民などを雇い、社参の往返を宿継なしに使役することもあった。これを通し日雇といった。〔二九七〕は安永五年(一七七六)の将軍日光社参における六ツ浦藩の通し日雇人足証文である。この日光社参は四月の日光宮祭礼に行なわれたが、その他の公用旅行の通行も普通、春や秋に集中することが多い。その時分はまた農繁期にも当っているので、自然農民達は〔三一一〕〔三二四〕のように割当てられた伝馬役を代金にかえ、他人や請負業者に依頼することが多かった。このため伝馬代金の未納〔三〇一〕や伝馬不参〔三〇三〕による訴訟出入も頻発してくる。また助郷人馬の割当が不当で余分な人馬の空戻りが多く、逆に不参人馬の補充に多額な賃銭の雇人馬を使役するため、助郷村の負担も大きいものになった。このため、助郷村々から助郷人馬の不当な割当てや、不参人馬の予防を目的に、助郷惣代を宿場に常勤させることになった。しかし、助郷惣代が伝馬業務に介入してくると、助郷の争いも、はじめは宿場対助郷村の争論であったのが次第に助郷惣代対助郷村、あるいは助郷惣代をめぐる助郷村どうしの争論に移っていった。とくに文政二年(一八一九)からの越ヶ谷宿助郷出入〔三一〇〕は、宿場役人をまきこんで助郷村々を二分したはげしい争いが続いた。一応熟談のうえ示談になるが、その際とりきめられた助郷惣代四組五日交代議定の違反をめぐってまた争論が続けられた。〔三一四〕〔三一五〕〔三一六〕はいずれも文政二年から尾を引いている助郷惣代争論にかかわるものである。いずれにしろこうした争論も、公用旅行者の増大による助郷村の負担の加重に原因があった。助郷村々は、この過酷な助郷負担を免がれるため、機会を見ては助郷村の免除、あるいは助郷の軽減を望んで訴願をくりかへした。〔三三〇〕はこの定助郷免除願であり、〔三二〇〕は加助郷、〔三二二〕は増助郷の免除願である。

 また助郷村における助郷人馬の割当ては助郷勤高と称し、一定の諸条件を勘案して差引かれた村高に比例して何人何疋と割当てられるので、いきおい助郷勤高の減少を目的に訴願〔三二五〕〔三二六〕をくりかえすこともあった。しかし助郷の免除や助郷勤高の減免は、容易に許されないのが普通であった。しかも江戸時代も幕末になるとペリーの浦賀上陸、ロシヤ船の北海出没などで国情も緊張を加え、諸大名に課せられた国土防衛任務のための輸送業務が急激に増大する。諸大名はまたこの防衛物資の輸送などのため支配地領内の農民を動員したので、助郷村農民の負担がさらに加重されるようになった〔三二七〕。このため藩側の役人においても、支配地内村々の助郷免除を道中奉行所宛に訴願〔三二八〕することもあった。

 以上の諸史料からも窺えるように、助郷の過酷な実態は越ヶ谷宿助郷の特徴ではなく、どこの宿の助郷でも同じであった。比較上の便宜から〔三二九〕に収めた蒲生村が所属する草加宿助郷議定を参考にされたい。

 以上のごとく、宿駅の機能の一つは交通運輸の中継業務にあったが、今一つは旅人の休泊業務を果すことにあった。運輸業務は問屋を中心とした前記諸役人によって行なわれたが、旅人の休泊業務は主に本陣役の役掌であった。この休泊施設には、貴人の休泊を専門にした本陣、これに準ずる脇本陣、公用者の休泊を兼ねた御用旅籠などの別があった。このうち本陣役は宿役人の中でも格別な権威があり、問屋役を兼ねていたことも珍らしくない。〔二九九〕は越ヶ谷宿本陣の問屋兼帯願とその請書である。こうした宿役人の任免交代は在地役人の要請により、支配代官の許可を必要とした。本来江戸時代の運輸ならびに休泊施設は公用旅行者の便に供するのが目的であり、とくに本陣・脇本陣はこうした性格が強かった。このうち本陣は一般旅人の休泊は行なわず、専ら大名や幕府の上級役人ならびに公卿など貴人の休泊にあてられている。〔三二三〕はこの本陣の休泊日記である。誰が何時どのようにして休泊したか、その時の本陣の準備や手続きはどうだったか、さらにその応待はどのようになされたかなどの一端をうかがうことができる。

 こうした公用旅人が本陣などに休泊する時は、まず先触によって事前に通知し、「差合」(複数の者が泊り合せる)のないように配慮している。しかし何かの都合で、同じ日にかちあう場合があるが、この時は身分格式の上下を楯に、先約の者へ宿所の交替を要求する差合争論をおこすこともしばしばあった。〔三一八〕は後から宿場入りした日光門主名代と、先約ですでに本陣入りしていた岩槻浄国寺住職との差合一件記録である。本陣明け渡しを強要する日光門主名代に、本陣ならびに宿役人は当惑する。しかし幕府は常識より身分格式を重んじ、寺社奉行の裁定でも理を踏んだ本陣の取扱いが、かえってきびしい叱嘖にあっている。しかも本陣でもし事件でもおきれば、本陣はその責任上辞職することもあった。〔三〇八〕は日光道中越ヶ谷宿の隣宿粕壁宿本陣の盗火両難による本陣辞職一件である。しかしこの辞職に際しても、跡役がきまるまでは、容易にやめられないのが普通であった。

 また幕府は本陣・旅籠屋の維持のために、災害時等には拝借金などを下付してその再建をはかっていた。〔三〇六〕は、文化十三年(一八一六)の大沢町大火の際に焼失した越ヶ谷宿本陣の再建拝借願である。この時の本陣再建拝借は二度にわたり合計三八二両におよんでいる。条件は無利子による長期の年賦償還である。しかしこの際の一般の旅籠屋は拝借金も少なく、ほとんど自費調達で再建せざるを得なかった。なかには資金の調達に困り、旅籠屋株を他人に譲渡して退転したり、または転業する者も多かった。こうした混乱で宿場の復興は大幅に遅延し、御用休泊に差支える状態が続いた。〔三〇七〕は、その際御用宿を拒否した旅籠屋の争論一件記録である。この旅籠屋は被災後いち早く再建をしたにもかかわらず、一般旅人の休泊を専門に行ない、公用旅人の休泊をこばんだ。公用旅人の休泊料は御定旅籠賃といって、低廉な休泊賃であったからである。御用休泊は宿場に課せられた義務でもあり、困惑した宿役人はこの旅籠屋を相手どり、争いは再三にわたる訴訟にまで発展した。幕府の交通政策における矛盾をあらわに露呈した一件でもある。

 越ヶ谷宿が、文政四年(一八二一)道中取締役人に差出したとみられる「御内〻御尋ニ付諸家様風説申上并御内〻奉願候五ケ条之下書留」という、公用旅行者の実態調べ〔三一二〕によると、幕府の交通政策の矛盾はより具体的につかむことができる。すなわち、超過伝馬に対する賃銭の不払い、休泊賃の低廉、宿入用の多額な出費、それに通し日雇人足の横暴など、しかも、これが当然のように幕府の役人、日光宮関係者、あるいは通行諸大名等によって行なわれていたことが知れる。そのうえ、こうした公用旅行者の増大に加えるに、宿場の助成となる一般旅人は舟運を

利用するなど、宿場財政は追々悪化を辿っていった。このため宿場では食売旅籠屋という特殊な旅籠屋を存続させ、一般旅人を多数宿泊させることによって、宿場の財政を維持しようとした。越ヶ谷宿では、すでに万治年間(一六五八~)から大沢町に食売旅籠屋があらわれたといわれ、化政期(一八〇四~二九)には二二軒の食売旅籠屋が多数の食売女を抱えて繁昌をきわめていた。幕府はこれに対ししばしば取締りを強化するが、〔三一三〕〔三一七〕は、この大沢町食売旅籠屋の取締りにかかわる史料である。

 〔三三二〕は明治維新時における越ヶ谷宿旅籠屋の議定書であるが、主に食売旅籠屋を対象とした議定である。なお明治六年、明治政府による食売女解放令によって大沢町は打撃をうけるが、その禁止令は徹底したものでなく、その後も存続したのは越ヶ谷宿大沢町でも例外ではない。