江戸時代、領主が鷹を放って野鳥などを狩猟(鷹狩)する特定の場所のことを鷹場といった。当時の越谷地域は、すべてこの鷹場に指定されていた。
「徳川実紀」によると、徳川家康ならびに秀忠は、民情視察をも兼ねて、しばしば越ヶ谷周辺をはじめ関東各地で鷹狩をしている。しかしこの鷹場が制度的に定められたのは、寛永五年(一六二八)十月で、江戸からおよそ五里以内の村々が鷹場として指定され、「放鷹場制札」五か条が建てられた。ついで寛永十年二月には、将軍家の鷹場の外側、およそ江戸から五里と一〇里の間に御三家の鷹場があたえられたという。この鷹狩は五代将軍綱吉のとき、生類憐みの令で禁止となり、元禄九年(一六九六)十月には鳥見役が廃され〔三三五〕、鷹場は制度的にも一時廃止された。しかし〔三三六〕〔三三七〕によれば、享保元年(一七一六)八月、鷹場が復活し、江戸周囲の八条領ほか八か領が、旧来通り将軍家の鷹場に再指定された。なおこの将軍家鷹場は御拳場とも称され享保三年、葛西・岩淵・戸田・中野・目黒・品川の六筋に再編成されたが、越谷地域の八条領鷹場は、このうち葛西筋に組入れられた。
またこの御拳場の外側には約三〇〇か町村単位の捉飼場と称される鷹匠支配の鷹場と、御三家・御三卿等の鷹場が設定されていた。越谷地域には、千疋・別府・南百・見田方・東方・西方・伊原・麦塚各村が御拳場、蒲生・登戸・瓦曾根・谷中・四町野・七左衛門・越巻・大間野各村が紀伊家鷹場、それに越ヶ谷町・大沢町をはじめ、その残りの各村が捉飼場というように、それぞれの鷹場領域に組入れられていた。なお、当地域の捉飼場は鷹匠戸田五介の支配であった。
また鷹場に関する職制には、将軍の鷹を預かって飼育し、かつ鷹狩に従事する鷹匠、鷹匠の支配下にある猟犬を扱う犬索役、鷹場内を巡見し、鳥の所在を調べ鷹場の取締りやその管理にあたる郷鳥見役、鷹の餌を調達する餌差等とがあった。このうち郷鳥見役は享保三年七月から野廻役と改称されたが、主に在地の有力農民がこの役に任ぜられた(苗字帯刀御免二人扶持)。ただし将軍家鷹場である御拳場領域は、鷹匠の支配とは別に、若年寄の支配下にある鳥見役がこの鷹場の管理にあたっていたが、この鳥見役は小禄の幕臣がこれに任ぜられていた。
〔三四〇〕は、享保二年(一七一七)六月、武蔵国足立・埼玉両郡のうちの村々が御三家の紀伊家鷹場に指定された際の、幕府の通達である。これにより紀州鷹場に編入された村々を知ることができる。なお当地域を担当した紀州鷹場の鳥見役は、足立郡大門宿の本陣会田氏であり、代々の世襲役であった。
〔三四二〕は、戸田五介組捉飼場の野廻り役を勤めた増林村榎本氏が、享保三年から安永七年(一七一八~七八)にわたる鷹場に関する触書や願書などを書留めた御用留である。鷹場支配の実態を知るうえで非常に貴重な史料である。なかでも安永七年に、野廻役二九名が戸田久次郎役所に差出した待遇改善要求の願書は興味あるものである。すなわち鷹場内での密猟者を追跡逮捕するのはきわめて危険がともなう仕事なので、以後の巡視には下役を一人つけてほしいこと、また近年は御用が多くなったので扶持を増してほしいこと、さらに「野廻り」という役名は、農作物見廻り人のことと紛らわしいので、元の通り「郷鳥見」という役名に戻してほしいというものである。このほか〔三六一〕によれば、野廻役が奉行所取調べに立会う時は、罪人と同じ白洲に控えさせられるが、奉行所縁側に着座できるようにしてほしいと願っている。こうした身分的な取扱い方についても、野廻役はきわめて不満を感じていたとみられる。
〔三四五〕は、宝暦十三年(一七六三)御拳場の八条領が、御三卿の清水家鷹場になった際の触書である。しかし将軍家からの御借場であるこの清水家鷹場は、寛政二年(一七九〇)財政倹約のため将軍家に返上され、八条領は再び御拳場に復した。
〔三四七〕は、場所違い鶴捕獲一件の記録書である。鷹場には、御拳場・捉飼場・御三家鷹場等の領域が定められていて、原則として他領の鷹場で狩猟をすることは禁ぜられていた。史料によると、戸田五介組の鷹匠が、御拳場内で鶴を捕獲したことに抗議した地元村役人と争いを起した。村役人は鷹匠の威嚇に屈せず事の子細を鳥見役人に注進してこれに対決する。結果的には内済となるが、鷹場定法を守った村役人らは、勘定奉行からの表彰をうけるという珍らしい一件である。
〔三四九〕は、戸田五介組配下の野廻世話役が、その役儀取計不法に付訴訟となった際の済口証文である。この史料により、戸田五介組捉飼場は、武蔵・下総のうち十一か領二八四か村、高一四万石余の領域をもち、当時野廻役は八人いたことが知れる。なお、これら野廻役は、在地の有力農民から登用されたが、その主な仕事は、鷹場の監視とその管理にあった。この役儀は当然警察的な取締り機能があったので、一般農民から畏怖されたし、野廻役はまた役儀をかさに不当な取計らいをする者がいた。この史料もこうしたことに関する訴訟一件である。
〔三四八〕〔三五二〕〔三五七〕〔三五八〕は、いずれも西新井村の新井氏が野廻役を勤めた際の文書であり、野廻役の勤務の一端などが具体的に知れる好史料である。
このほか鷹場内で密猟した者の取調べ状況〔三五四〕や、鷹場取締りの議定書〔三五三〕等により、農民とのかかわりあいにおける鷹場の様子の一端を知ることができる。また注目されるのは、文政三年(一八二〇)御拳場内の取締りに関東四手代官が任命〔三五一〕され、代官の手附手代が廻村することになったが、のち代官による鷹場取締りは捉飼場にも拡大された。〔三五九〕は捉飼場内の農民が、この代官所の手附手代の廻村は迷惑なので、先規の通り野廻役だけの取締り廻村にしてほしいと願い出て、願いどうり聞届けられた文書である。