本項には世相・風俗・諸事件など社会生活にあらわれたさまざまな人間模様を示す史料を収録した。これら人間生活の諸様相は、時代の環境によって大きく変っていく面が多いので、その時代相を端的に示してもいよう。
〔三六二〕は、享保十二年(一七二七)村内において操芝居を興行したことを咎められた農民が、領主宛に出した詫書である。江戸時代も中期頃迄の村はまだ自給自足経済を基本としていたので、農民の娯楽は、それぞれの鎮守を中心とした部落単位、村単位の諸祭礼や、寺院を中心とした諸行事が主なものであった。したがって操芝居興行や勧進角力興行などのように、商売人を村に入れることは画期的なことであった。しかし領主側は、村のしきたりが乱されるとしてこのような興行を禁止していたので、これが発党して咎められる場合が多かった。
また当時の村人の犯罪は、他人の持木を伐ったり〔三六三〕〔三六五〕、農作物を盗みとったり〔三六四〕〔三六七〕、農業を怠り他人に迷惑をかけたり〔三六六〕する程度のものであり、いずれも村役人や領主に詫書を入れて示談になることが多かった。さらに一般農民における男女関係も比較的に自由であったとみられ、男女関係の紛争もしばしばおきたが、これまた示談で片付けられることが多かった。ただし〔三六九〕の場合は、この内紛を知った若者達の悪戯により問題がこじれたものである。
しかしこうした素朴な犯罪の発生にも驚いていた農村に、貨幣が介在してくるとその様相は大きく変ってくる。すなわち自給自足を建て前とした農村に、商品経済が浸透し、物と貨幣の価値の比重が逆転してくると、貨幣にかかわる悪質な犯罪が増大してくる。博奕の流行もその現われの一つであり、博奕による村内騒動〔四〇一〕、博奕による刃傷事件〔三七一〕などが続出し、博奕取締りの一斉検挙〔三九二〕がしばしば行なわれた。さらに盗金を目的に主人殺しの大罪を犯す者まででてきた〔三七〇〕。とりわけ越ヶ谷・大沢は宿場町であったので、他国人の出入が激しく、また地借・店借をして宿場に定住する者もいたが、この中から贋金づくりの犯罪人が発生する始末であった〔三八四〕。
このほか、越ヶ谷宿大沢町には、食売旅籠と称し飯盛女を置いた特殊な旅籠屋があったが、この飯盛女をめぐるさまざまな事件もまきおこされている。史料〔三七四〕〔三七五〕はその例である。
以上見てきたような社会様相の変化に対応し、文政十年(一八二七)二月、幕府は村内秩序と治安の維持を目的にして関東全域に改革組合村の結成を指示した。この組合村は私領・幕領に関係ない地域単位とした組合せで、いわゆる八州廻りと称した関東取締出役と直結した警察的機能をもつものであった。改革組合村々は、幕府が発令した四三か条の法令をもとに、組合議定・村議定という形で、冠婚葬祭の自粛や農休日の規定、さらに日常生活の微細な点に至るまで規制を強めていった。〔三八二〕〔三八三〕などは、いずれもこの改革議定に抵触した者の組合惣代中あるいは村役人宛の詫書である〔三七八〕は関東取締出役の書留めた村内の「悪者」のリストであり、またこれに対し悪者達が、村役人にとりなしを願う詫書である。〔三八一〕は同じく悪者達が、関東取締出役の取調べの猶予を取計らってもらいたいという組合惣代中に宛てた願書である。
このほか村人の中でもとくに若者達の作法や風紀の乱れが顕著となり、各所で喧嘩や暴行などの事件が数多く発生してくる。史料〔三八五〕〔三八八〕〔三九三〕などもこうした喧嘩や暴行に関するものである。また〔三七三〕は、喧嘩出入による傷害事件であるが、この一件は町役人の仲介で示談となった。しかし、療治代の受取方法で再び訴訟となった。
〔三七二〕は、文化十三年(一八一六)の大沢町大火の際に突発した名主宅打毀し一件である。この大火は元荒川の対岸四町野村からの類焼によるもので、暴動の直接の動機は、火災の取調べに当った代官所出役人が火元に対して寛大な計らいをしたためであった。いずれにしろ家屋財産を失なって、生活の不安を感じた群衆の衝動的な暴動であった。幕府はこの打毀し一件については処分者を出さず内済の取扱いをしている。
〔三八七〕は、幕末期さかんに流行した花火打揚に関する訴訟文書である。万事ひかえ目な農村において、大仕掛な花火を行なっていたことは注目されよう。
〔三九四〕は、大沢町困窮人の施米要求に関する集会一件の記録である。宿場の地借・店借層はもっぱら、小商いや職人稼ぎ、あるいは駄賃稼ぎなどによって生計をたてていたので、飢饉その他で物価が上昇すると直接死活問題となる。したがって物価が不当に高騰する都度、一団となって町内の本百姓に施米等を要求した。またこれに応じない時は、打毀しなどの不穏な動勢を示す場合もあった。
〔三九五〕〔三九六〕は、洪水時における堤防切割騒動の一件文書である。河川あるいは用排水における下郷上郷の矛盾は、常時でも対立を生むことが多い。とくに洪水などの非常時態には、自村の防衛のため常識を超えた暴動となる。前者は、洪水時における葛西用水の溢れ水をめぐる大吉村と増林村を中心とした対立である。大吉村農民は増林村側の堤防を切り割り、大吉村の水難を防ごうとした。本来大吉村は窪地であり、ひとたび水が耕地に入ると排水困難の地勢にあった。しかも葛西用水の溢れ水はきまって大吉村側の堤防を越して流入する。こうしたことで、この騒動が大吉村側から起こされた。後者は、同じく洪水時における備前堤をめぐる数か領単位の大規模な下郷上郷の対立である。とりわけ堤防周辺の村々は、農作物の被害は勿論、人命財産にかかわる災難となるので必死な争いに発展していった。
〔三六一〕は、不受不施派宗旨の幕府の詮議糺しに対する村の取調べ結果の報告書である。不受不施派とは日蓮宗の一派で、キリスト教同様幕府の禁令をうけていた。
〔三八九〕は、梓巫女の免許証である。梓は弓の材料となる木、つまり梓弓を鳴らして死霊生霊を呼びよせ、いわゆる口寄せを行なう巫女のことである。
〔三九〇〕は、新興宗教である不二講信者に対する奉行所の裁許書である。当時関東を中心に根強く流行した宗教であるが、その中心的な信者の一人に越谷地域の者がいたのは注目されよう。
〔三七九〕は、村議定を破って西国順礼に参加した者達の文政十三年(一八三〇)の詫書である。ここで注目されるのは、この年はいわゆるお伊勢参りが突発した年であり、富士参詣に向った一行が、その途中お伊勢参りの群衆にまきこまれ、いつかこれと同行をともにしていたとも考えられよう。
〔三八〇〕は、若者達の西国順礼は、村々に大きな禍根を残す悪弊なので、これを取締ってほしいという訴願である。西国順礼の際の一般的な道程や巡礼者の行動、さらに出発時、帰村時の動向などが具体的に知れる好史料である。当時の庶民は老若を問わず、伊勢講・富士講などと称し、その旅費を積立てては物見遊山を兼ねた神仏詣でを行なっているが、これらも幕府の規制や村掟の規制などで、決して自由なものではなかった。