災害救恤

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 越谷地域は、武蔵野台地と下総台地の間にはさまれた低地にあり、しかもそこに江戸川をはじめ庄内古川・古利根川・元荒川・綾瀬川などが貫流している。したがってこれらの川がひとたび出水すると、この沖積地の水田地帯は甚大な被害をうけた。例えば史料的に明らかにできる主な出水だけでも、宝永元年・寛保二年・宝暦五年・同六年・同七年・明和三年・安永八年・同九年・寛政二年・同三年・享和二年・文政七年・弘化三年・嘉永二年・安政六年・元治元年・慶応四年と枚挙にいとまない程である。このうち史料〔四〇四〕〔四〇五〕〔四〇七〕〔四〇八〕は、寛保二年・宝暦七年・天明六年・享和二年における八条領西方村の出水一件記録である。出水時の状況や、出水に対処した農民の様子が具体的にとらえられて興味あるものである。

 このほか天明三年(一七八三)の浅間山噴火による被害〔四〇六〕、天保七年(一八三六)の冷害風害〔四一六〕、さらに安政二年の地震による被害〔四一八〕等その災害は数多く見られるが、低湿地帯であるだけに、大きな旱魃の被害が見られないのが特徴であろう。

 一方、江戸時代の住居は木造藁葺の家屋が多いうえ、消防器共の幼稚なこともあり些細な火災でもすぐ大火になる場合が多かった。とくに日光道中の宿場町として軒を接した越ヶ谷・大沢両町の火災を見ると、史料的に明らかにできるものでも、延享五年・安永三年・同六年・天明三年・文化十三年の大沢町大火、元文四年・安永五年・寛政三年嘉永三年・安政五年の越ヶ谷町大火が挙げられる。とくに文化十三年(一八一六)の大沢町大火は、一六○軒余も焼失したが、その際、見分役人に提出した町絵図〔四一三〕は、当時の町並の有様をうかがえる好史料である。

 またこうした災害に遭遇した際、村から夫食拝借〔四一六〕や、類焼再建拝借〔四一四〕などの訴願があれば、幕府は無利子の年賦償還で貸与することがあった。本巻には収載しなかったが、河川の復旧工事における御手伝普請なども、村民救済の一つに数えられる。

 〔四一五〕は、前記拝借とは別に、幕府が村内困窮者に施金を実施した記録である。このなかで注目されるのは、この施金をうける資格者は、幕府に年貢を納める石高保持者に限られ、地借・店借・無高層に対する救済でなかった点である。

 しかし幕府は、原則として災害の防禦や、被災者あるいは困窮者の救済は、村落共同体内の責任において、その自主性にゆだねる方向をとった。したがって村内における困窮者の救済は、主に村内有徳者層の義捐をもって賄なわれることが多かった。幕府はまたこれに対し、しばしばこうした奇特者の氏名を書上げさせ〔四一七〕、時には勘定奉行の感状〔四一〇〕を与えることもあった。