寺社

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 天正十八年八月、関東に入部した徳川家康は、翌天正十九年(一五九一)十一月、領内の主な寺社に寺社領を寄進した。いわゆる朱印状と称されたこの寄進状は、その後、将軍の代替り毎に再交付された。ただし六代・七代二五代の将軍は、在任期間が短かったり、幕末混乱期であったりしたためか、朱印状の交付がみられず、したがって全部揃えば一二通である。この朱印状は、維新時に関係書類と共に明治政府に提出したため、寺院に残らぬ例が多いが、〔四二〇〕~〔四二七〕のごとく越谷地域の寺院には、原本・写し共によく揃って現存している。現存の朱印状すべてを収めたかったが、紙幅の関係上江戸時代初期のもの以外は適宜省略した。なお朱印状の記事のうち、崎西郡から埼玉郡の地名に変る時期が注目されよう。

 〔四二八〕は、禅宗曹洞派法恩山勝林寺の寺伝である。開山は岩槻渋江氏の系譜をもつ須賀氏であると記され、史料の乏しい当地域の中世を考える上に一つの手がかりとなるものである。また当寺に安置されている正観音像は恵心僧都の作、韋駄天像は運慶の作、十一面観音像は大宮方の作であるとした、貞享五年(一六八八)の鑑定書〔四三〇〕が当寺に伝存している。

 〔四三一〕は、浄土宗栄広山清浄院、ならびにその末寺の由緒書である。清浄院開山の賢真上人の名は、追善供養碑とみられる宝徳元年(一四四九)の板石塔婆にその銘がある(『越谷市金石資料集』参照)。第十世中興の祖文誉上人の名は〔参考〕に掲げた〔四五三〕「六ケ村栄広山由緒著聞書」のなかに、賢真上人の名とともに見られるが、くわしいことは不明である。

 〔四三六〕は、真言宗真大山大聖寺の由緒書である。いわゆる大相模の不動さんと呼ばれ、庶民の信仰の厚かった寺である。本尊は良弁僧都の作による不動明王であるといわれる。

 〔四三七〕は、真言宗慈氏山照蓮院の記録書である。寺院間における慣例や、その手続上の諸措置、さらには各伺書の様式などが一通り記載されている。また同寺には、一年の主な行事の作法などを具体的に記録した「照蓮院年中行事」〔四四六〕がある。

 〔四三八〕は、江戸時代の初期、天台宗寺院から苜洞宗寺院に改められた、野嶋山浄山寺の口伝書である。本尊は地蔵菩薩で、慈覚大師の作であると伝えられる。当寺は通称野嶋の地蔵さんと呼ばれ、幅広い信者の信仰をあつめた寺であった。安永七年(一七七八)以降しばしば江戸の湯島天神などに出開帳が催されて信者の賑いをみせたことは、「武江年表」によっても知ることができる。このほか信者から通行に要する人馬の寄進をうけながら、関東各地を廻って出開帳を行なっているが、〔四四二〕はこの出開帳の際の人馬寄進帳である。

 〔四二九〕は、越谷の各地区で現在も伝承されている産社講の一つ、越巻村(現新川町)丸の内産社講の入用帳である。祭礼に用いられた賄品目によっても、時代の流れを窮うことができよう。また産社祭礼行事の当時の仕法は、「小林村香取祭礼式法」〔四四一〕によって具体的に知ることができる。

 〔四四八〕は、将軍の代替り毎に交付される朱印状の受取一件記録である。これは一三代将軍徳川家定の時のものであるが、この朱印状の日附は安政二年(一八五五)九月である。しかし受取ったのは安政四年九月である。つまり朱印状の日附から二年後に、この時は粕壁宿において周辺関係七寺院が同時に、交附されたことがわかる。またこの記録は交附の通知から受取るまでの経過が具体的に記されている好史料である。

 〔四五三〕は、新方領大松村の栄広山清浄院にまつわる中世の事歴を伝える記録である。しかしこの史料は、今後の考証を必要とするので、参考として収載した。

 このほか〔四五一〕の明治維新に際しとりきめられた、鎮守氏子の議定書など興味ある史料等を収めてある。