文化

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 江戸時代には、江戸や京・大坂などの中央文化に対し、各地方にも独自の文化が展開した。

 越谷地域の文化も、板碑等の金石による遺物資料、伝説、民謡、芸能などに代表される遺習資料、文書や記録による文献史料などにより、地域独自の特色を見ることができる。

 なかでも郷土の記録類には、すぐれたものが数多く見られる。例えば越ヶ谷宿本陣福井猷貞編集による交通関係史料集や地誌類(『越谷市史』第四巻参照)、大沢町名主江沢太郎兵衛編集による地誌(『越谷市史』第四巻参照)、西方村農民の編集による旧記類(『越谷市史』第四巻参照)などが挙げられる。

 また当地域出身の文化人には、方言学者の越ヶ谷吾山、国学者の渡辺荒陽、歌学者の村田多勢子、漢法医の伊沢信階(伊沢蘭軒の父)など、著名な人物も多い。さらに地元農民と江戸の文化人との交流も頻繁で、当地にその書画や文書が残されている。

 〔四五七〕~〔四八五〕は、当時独自の国学をもって、庶民の間に深く浸透していた平田篤胤が、越ヶ谷町の門人山崎篤利家宛に出した書簡である。その遠慮のない文体から、平田の人間像の一側面がとらえられよう。平田篤胤は安永五年(一七七六)秋田の大和田家に生れ、寛政十二年(一八〇〇)平田家の養子となった。文政元年(一八一八)越ヶ谷町の山崎篤利の世話で、同町の豆腐屋の娘織瀬を後妻に迎えた。天保十二年(一八四一)幕府の弾圧にあい、著述差留のうえ江戸払の刑をうけ、天保十四年郷里の秋田で病歿した。時に年六八歳。

 平田篤胤と深交のあった越ヶ谷町の山崎篤利は、油長という屋号の商家で明和三年(一七〇六)の生れ、文化十三年(一八一六)篤胤の門人となり、文化十五年篤胤著述の「古史徴」「古史成文」の版刻代二九六両を融通、古史徴の序文を執筆している。天保九年七三歳で歿した。この間山崎家に残されている篤胤の書簡は二八通である。いずれも年代は不詳であるが、各通ごとの後尾にその考証推定年代を註記し、その推定年代にしたがって配列した。このほか〔四八六〕は、文政七年に平田篤胤の養子になった鉄胤の書簡である。なお、山崎篤利のほかに越ヶ谷町で篤胤の門人になっている者に、小泉市右衛門、町山善兵衛らがいた。

 〔四九一〕は、江戸の著名な画家谷文晃が、八条領の忍藩割役名主宇田家に宛てた書簡である。文晃は当地方にしばしば訪ずれていたとみられ、当地域の旧家にも文晃署名の絵画が多く残されている。この宇田家に宛てた書簡は、文晃の弟子が西方大聖寺に所用のため訪問するから、その節はよろしくとの文面であり、文晃はこの宇田家とはかねて懇意な関係であったとみられる。

 〔四八七〕は、本因坊大和による囲碁初段免許状である。当時の上層農民においては、囲碁をたしなむ者も珍らしくなかったとみられ、なかには史料に見られる蒲生村の中野氏のように、本因坊から囲碁初段の免許をうける者もいた。また一般農民においても、幕末期にはいわゆる「よみかきそろばん」が普及し、和歌や俳句などの風流を楽しむ者や、算術にすぐれた才能をあらわす者が出てきた。

 〔四八九〕は、第六天社の社頭にかかげられた算額であり、〔四八八〕は同じく薬師堂に奉納された、ものはづけ集の額である。ものはづけは当時流行した遊びと思われるが、多数の農民が参加して催されていたのは注目される。また俳句もさかんで、なかには木版刷にされた句集もあるが、本項には木版刷でない〔四九五〕一編を収めた。このほか各家々には、寺小屋で用いたと見られる往来物などが多く残されているが、近郷の村名をおりこんだ〔四九二〕もその一つである。