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 個人の家にも、時代の流れにしたがった歴史がある。これらの家の歴史は、そのまま郷土の歴史につらなるものが多いので、家の沿革を知ることは郷土の沿革を調べる上に重要である。家の歴史を知るには、家譜類がもっとも便利なものであるが、系譜のみを記した簡略なものが多い。

 当地域の旧家にも、系譜を伝えている家が多くあるが、本項には比較的くわしい家譜を伝える、恩間村の渡辺家〔四九七〕、麦塚村の中村家〔五〇一〕、越ヶ谷町の会田出羽家〔五〇二〕、西方村の秋山家〔五〇五〕のものを収めた。渡辺家は、中世来の土豪の系譜をひく家であり、江戸時代は、代々岩槻藩領恩間村の名主を勤めていた。この家からは、国学者の渡辺荒陽や、歌学者の村田多勢子などが出ている。中村家は、前出〔四〕の文書によって明らかなごとく、岩槻の太田氏に所属していた時もある、同じく中世来の土豪の系譜をひく家である。江戸時代は、代々忍藩領麦塚村の名主を勤め、また忍藩柿ノ木領八か村の割役名主を勤めたこともある。会田出羽家も中世来の土豪の系譜で、前出〔七〕の文書のごとく、徳川家康から屋敷地一町歩を下賜された由緒ある家である。この家からは旗本家臣団に組入れられた者が出ている。秋山家は武田の家臣穐山伯耆守の子孫であるといわれ、当地に土着後は代々西方村の名主を勤めてきた家である。とくにこの家の由緒記は、各世代の詳細な事歴が記述されており、興味ある家譜といえよう。

 〔四九六〕は、越ヶ谷御殿番を勤めていた浜野家の由緒書上げである。越ケ谷御殿は、明暦三年(一六五七)に江戸城二の丸の仮御殿に移されたが、この御殿跡地の雑木林に対する浜野家の由緒などが述べられている。

 〔四九八〕は、砂原村名主松沢家から養子に出た子息が、幕府地誌調所に採用されたが、その採用の経過と勤務の状況を実家に報告した書簡である。地誌調所とは、林大学頭を長とする幕府学問所の中の一業務で、いわゆる「新編武蔵風土記稿」などの地誌類を調査編集した所である。この地誌調所の内情の一端が知れる興味ある史料である。

 〔四九九〕は、登戸村名主関根家の、相続者に対する教訓書である。公私用の外出時における注意事項や、親戚交際の上の注意事項などがおりこまれている。これは当主の経験からでた発想によるものであろう。当時の大家は家の存続を第一に考え、末々のことまで考慮してこれに対処したのである。

 〔五〇三〕〔五〇四〕は、砂原村松沢家と縁戚の画家小方霞村の書簡である。草深いと思われていた農村にも、こうした関係で文化人との交流が広く行なわれていたことは、決して珍らしいことではなかった。

 〔五〇六〕は、明治政府から孝行者として表彰された大沢町秦野氏の自叙伝である。貧しい畳職人の家に生まれ、家業の手伝のかたわら勉強を続け、しかも幾多の誘惑にもうちかって真面目に生きた、一庶民の人間像をこの自叙伝からうかがうことができる。