(「袋山細沼家文書」市史編さん室蔵)
【表紙】
「村鑑書上ケ帳
武蔵国埼玉郡越ヶ谷領
袋山村」
一元禄八亥年 [私領寺社領/他御代官所]入会無御座候
酒井河内守様御検地
伊奈半左衛門御代官所
武蔵国埼玉郡越ヶ谷領
一高弐百三拾七石弐斗三升弐合 袋山村
内新田無御座候 江戸迄道法七里
上畑石盛七ツ
中畑石盛五ツ
一畑六拾八町三反六畝拾四歩 下畑石盛三ツ
下〻畑石盛壱ツ
屋敷石盛七ツ
一当村畑場ニ御座候得共、古荒川通り八条領瓦曾根村堰水御溜置被遊候故、古荒川通水たゝえ申候而悪水落口無御座候、殊ニ岩付領ゟ悪水落シ込溜井ニ罷成大水損場ニ御座候得共、年ニより旱損之節ハ砂真土ニ御座候而旱損仕候、
一小物成宿役御入用米年〻御上納仕候、
一柳原弐町壱反壱畝歩 此永百六文
一芦野六反拾八歩 此永百五拾弐文
一草銭場九反三畝拾六歩 此永百三拾七文
是ハ秣ニハ用不申候、
一諸運上之類無御座候、
一家数七拾弐軒 此内九軒 地借
弐軒 寺院
一人数三百九拾弐人 内男弐百九人
内何人 女百七拾九人
男出家三人
壱人寺院下人
是ハ宗門帳ニ書上候
一馬拾三疋 但し牛無御座候、
一当村男女耕作之外かせき無御座候、勿論名物等無御座候、
一当村之義町場市場ニ而無御座候、
一当村之義日光道中近所ニ而越ヶ谷大沢町他助人馬相勤申候、
一草苅場無御座候、
但シ秣之義野道畑廻りニ而苅取用申候、
一御林無御座侯
一百姓林弐町九反七畝四歩 此永七百四拾三文
一御年貢米津出シ無御座候、
一海川浜猟仕候者無御座候、
一浦方ニ廻船荷船無御座候、
一古荒川水除ケ堤長拾五間、毎年ハ普請不仕侯得共年ニより羽口御普請仕候節、萱之義ハ御用萱野ゟ出申候、人足諸色之義ハ越ヶ谷領御料御私領拾四ヶ村ニ而相勤申候、并領内ニ諸御普請有之節ハ霞一同ニ組合相勤申候、
一長拾間[横七尺/高五尺] 悪水落シ圦壱ケ所
但シ当村悪水落シ圦破損之節ハ板・材木・釘・鉄物ハ御入用、袖羽口萱之儀は御用萱野ゟ出申候、人足諸色之義ハ越ヶ谷領御料御私領拾四ヶ村ニ而相勤申候、
一長三間[横一間/高三尺] 悪水落シ圦壱ヶ所
但シ当村悪水落シ圦破損之節ハ、板・材木・釘・鉄物ハ御入用、袖羽口萱之義ハ御用萱野ゟ出申候、人足諸色之義ハ越ヶ谷領御料所七ヶ村ニ而相勤申候、
一土橋四ヶ所 是百姓[ ]【虫喰】入用を以掛ケ申候、
一池五畝歩 壱ヶ所
一大沼無御座候、
一当村ハ里方ニ而御座候得共、古荒川古川取巻其上岩付領悪水落込候間水損仕候、殊ニ旱損之節ハ砂真土ニ而大旱損仕候、畑方斗之村ニ而壱毛作同前ニ而百姓困窮仕候、
一大成寺社無御座候、
一名高山無御座候、
一御殿場無御座候、
一古城跡其外名高人之屋敷跡或ハ川欠山崩等ニ而、格別古来より変地ニ成候所無御座候、
一見取田九町三反五畝歩
是ハ拾六年以前戌年古荒川御堀替ニ而、其跡拾年以前辰年比企長左衛門様御改ニ而、袋山村・大林村・大里村・下間久里村・上間久里村・恩間村以上六ヶ村ニ而見取田ニ被仰付候得共、只今迄割合ハ不仕候御預り地ニ御座候、
一御除地壱町七反弐畝廿五歩 寺弐ヶ寺
是ハ真言宗持福院釈加堂
一御除地七畝拾五歩 堂社四ヶ所
是ハ雷電并稲荷大明神薬師堂
一当村ハ砂真土ニ御座候、寒暑之義江戸ニくらべ寒ハ江戸より少強、暑ハ江戸同前ニ御座候、
右ハ此度村鑑御川ニ付当村之義、拙者共委細吟味仕書上ケ申通少も相違無御座候、重而御吟味之節若相違之義御座候ハゝ何様之曲事ニも可仰付候、仍如件
武州埼玉郡
越ヶ谷領袋山村
享保六年丑四月 名主 平左衛門
同 佐次右衛門
年寄 喜左衛門
同 五郎右衛門
同 八郎左衛門
同 又兵衛