五五 文政五年二月地誌調西方村書上

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(『旧記五』市史編さん室蔵)

此度地誌調御用ニ付、明廿一日越ヶ谷宿出立ニ而西方村江罷越、別紙之通御用向取調候間、村役人ハ不及申古来ゟ之申伝等覚居候者壱両人右ケ条相調、是迄御代官地頭江差出候明細帳有之候ハゝ取揃、明後廿二日朝四ッ時前西方村旅宿江罷出可申候、此廻状早〻順達留リ村方ゟ返却可有之候、以上

   二月廿日 地誌御用出役

           小野太郎右衛門

           古山勝治郎

            西方村外三ケ村

               役人中

 右は別紙ニ御問書相添御廻状ニ付、左之通相認差出申候、

    覚

      江戸日本橋ゟ五里余之道法

        武州埼玉郡八条領 西方村

一高千三百四拾九石四斗壱升三合

 家数は百六拾軒

 東方之隣村は 東方村ニ御座候御高札場ゟ右村御高札江四丁程

 西方之同断は 瓦曾根ニ村御座候右同断拾五丁程

 南方之同断は 登戸村ニ御座候右同断拾八丁程

 北方之同断は 小林村ニ御座候右同断八丁程

 田方は    百拾六町八反九畝拾歩

 畑は     三拾町弐反弐畝廿歩

 水損旱損は  耕地高低之村方故両損共年柄ニ寄多分有之候、

 用水は    川俣ゟ瓦曾根溜井当村地敷ニ伏候圦ゟ引取申候、

 耕作之外稼は 縄莚拵仕候、

 昔ゟ領主地頭 前〻御料地ニ御座候処、寛文十一亥

 之替リは   年ゟ高百七拾三石八斗七升弐合万歳佐左衛門様御知行相分申居候、残而千三百四拾九石四斗壱升三合延宝七未年ゟ元禄中丑年迄拾九ヶ年間古河領堀田筑前守様御領分ニ相成、元禄十一寅ゟ御料所ニ立戻リ御代官伊奈

        半左衛門様御支配ニ相成候、只今以御料所ニ御座候、

 御検地は  寛永四卯九月五日ゟ同十六日迄御役人奥津角左衛門様・鈴木藤兵衛様・長谷川三郎右衛門・豊田源三郎様御懸リニ御座候、

 飛地は    無御座候、

 持添新田は  享保十六亥改高四斗四升弐合伊奈半左衛門様御検地、享保十八丑改高六石三斗九升七合伊奈半左衛門様御検地、寛延二巳改高壱斗四升壱合吉田源之助様御検地、明和七寅改高弐斗壱升遠藤兵右衛門様御検地

 高札場は   村中ニ而越ヶ谷ゟ二郷半領江往来端不動尊東門前ニ御座候、

 小名は    三谷組・藤塚組・田迎組・西方組と申伝候、

 山は     無御座候、且溜井水持堤之内字松土手但両側長延百九拾四間文化三寅年右場所御改奉請候、其節御改木数訳ケ松並木拾弐本、雑木拾四本、雑木苗木四拾弐本、松木小苗木近年追〻植付仕候、

 川は     元荒川村方ニ千弐百間程相当り候、大小橋数五拾三ヶ所内用水堀ニ懸渡し置申候、長弐間ゟ八間迄橋合五ヶ所御普請所ニ御座候、其外自普請所、

 堤は     元荒川水持堤下溜井廻し堤囲堤共都合五百間程御座候、

 池沼は    無御座候、但元荒川内溜井御座候、

 秣場は    無御座侯、

 神社由来は  年久敷儀故聢与相知レ不申

  但山王社壱ヶ所 但八幡社壱ヶ所 但不動堂壱ヶ所 是は右寺領ゟ可申上候、

 寺院由来は  年久敷儀故聢与相知レ不申候、

   大聖寺  真言宗山城国醍醐三宝【院脱カ】流末右寺領ゟ可申上侯、

   大徳寺  真言宗岩槻領末田村金剛寺末、本尊阿弥太【ママ】開山不知候、山号宝樹山境内稲荷社壱ヶ所

   福寿院  真言宗西方村大聖寺末、本尊大日開山不知、山号稲荷山境内ニ稲荷社壱ヶ所

   知性院  同断同断本尊阿弥陀同断、山号なし境内八幡社金比羅社御座候、

   安養院  同断同断本尊大日如来開山不知、山号大悲山境内天神社三ッ峯社御座候、

   正福院  同断同断本尊薬師開山不知、山号なし境内社なし、

   金剛寺  真言宗瓦曾根照蓮院末本尊大日、開山不知山号無し境内稲荷社御座候、

 修験は    東光院幸手領堤根村不動院配下、境内ニ山王社・天王社・天神社・諏訪社御座候、

 堂庵は    庵は無御座、堂は焔魔堂壱ヶ所、観音堂弐ヶ所、地蔵堂壱ヶ所、せいし堂壱ヶ所御座候、

 長史は、   無御座候

 鐘扣は    弐軒御座候

 城跡其外寺跡は無御座候

 名所旧跡は  無御座候

 塚は     無御座候

 墓は     堂寺境内ニ御座候

 旧家系図古書物は 無御座候

 右御尋ニ付奉書上候通少茂相違無御座候、此外御尋之儀は口上を以可奉申上候、以上

 文政五午二月廿二日 埼玉郡西方村 名主

                  年寄

 地誌調御用

   御役人中様

 右之通相認メ此外村方ニ而御代官替リ之節差出し来リ候銘細帳相添差出候、其外不動尊御銘之御尋并旧記御尋、境内堂宮間数委敷御書留被遊候、

一弥右衛門家作宝暦之度瀬崎村新右衛門方ゟ引取申候由、一躰瀬崎辺江先〻は度〻 御成有之御膳所ニ茂相成候家作之手続、委敷御書留ニ相成候、

一地誌御調之義之林大学守様御手附御役人様方ニ而、元禄之度御調有之候得共、猶又今度委敷取調、日本旧跡書物ニ相成事ニ承伝候、

  山谷村と申一村相分リ疑惑相晴レ候事

右は山谷村之儀御公儀様御取扱国〻御絵図面之内、武蔵国郡分領分村〻細〻村順能何年之頃よリ御取調有之哉、御用イ被遊候右絵図面ニ八条領之内、瓦曾根村・西方村・山谷村と順〻御記有之由ニ承リ伝候処、当時山谷村と申一村諸向ニ無御座候得共、西方村之内山谷組・藤塚組・田迎組・西方組と四組ニ分リ、其外数〻之小名字等付置候得共、元よリ御割付壱本ニ而訳ケ柄茂無之其外何ニ而茂聢与仕候証拠茂無之候得共、先年は山谷組之儀は別村ニ而有之抔、既ニ享保十八丑年ゟ翌寅年迄山谷組名主利左衛門江同役名主三人、外年寄・百姓大勢ゟ相懸リ及出入候訴答願書ニ、古来之通リ山谷組之儀は別段一村ニ仕訳度抔文面ニ有之、又は古書付ニ山谷村通路道抔と有之茂相見江候得共、田畑屋敷入交リ、中〻別村ニ可有之様子ニハ相見江不申候得共、村方を初世間之疑惑末世ニ無止事罷有候折から、文政之度村方旧家之古書物等取調候処、延宝八申年西方村ゟ八条江に相懸リ候添井堀築留出入御吟味ニ付、八条領村〻御料・私領致色分ニ、用悪水井堀往来野道村境道等悉ク相認メ差上候絵図面江、裏書ニ御裁許御書加、其節之御奉行様方御銘〻御印形被為遊御渡有之候絵図面ニ、右山谷村と私領之色分ニ而一村有之、乍併其村居形得与見届候処、伊原・麦塚両村之間当時東方村進退小名ニ上谷と申伝候場所ニ相当リ全相違無之儀、依之其向村役人江相尋候処東方村御割付之面高反別相分リ、山谷分と只今以有之由、左候得は阿部領七ヶ村は寛文弐年御領地ニ相成居、東方村之儀は元禄十一寅よリ別段一村阿部領江伊原村之御差替ニ相成、然ルは其砌リ右山谷村と申場所東方村進退之儀故、一村之名目御潰し東方村ニ組入、内訳ニ山谷分と御割付江記置候哉、兎角右領地ニハ右様之儀共有之事ニ承伝候、依而今般林大学頭様御手附小野太郎右衛門様・古山勝治郎様国〻村〻明細地誌御調として御廻村之節、山谷村之儀御尋ニ付、左之心得申立其上延宝之度御裁許絵図面御覧ニ入候処、大きニ御悦御肝心有之、一躰元禄之度地誌調之節山谷村と申一村有之筈之儀故、東方村・西方村小名等迄相糺候処右絵図面ニ而聢与相分リ、疑惑相晴し候由御書留被遊候、

  騎西郡と当村御水帳ニ有之訳之事

騎西郡と唱ふる事、古大郡は上下東西を分ケ而取扱為例事、依而崎玉郡を崎西郡・崎東郡と分て其郡之東ニ片寄西方村なれは、崎東郡と可有之処東西之無差別崎西郡と書用ル事、又は騎西と此文字を用ル世上ニ其例多し、不及論スル崎玉郡は異名成事又中年ニ改而埼玉郡と土篇を用ル公用之掟、今般地誌御調方御役人様ゟ承置候、