六三 延宝九年五月 蔵屋敷地出入裁許

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(『旧記壱』市史編さん室蔵)

武州八条領東方村与西方村蔵屋鋪地、訴論令糺明之処、見田方村・東方村・西方村之三ヶ村、御料一所之時分除地壱段六畝五歩之所、三ヶ村蔵屋敷として年貢米入置候、十七八年以前、見田方村私領ニ渡候付、見田方村米蔵私領之地内江引取之候、其以後東方村も私領ニ渡候得共、米蔵共儘指置之候、去〻年西方村又私領ニ相渡御料所之残石就無之、蔵屋鋪相添西方村江遣之候、然処東方村右之蔵地西方村与分取可申之旨申出候、御料所後日ニ私領ニ相渡御料所之残石無之時、米蔵相添遣候儀八条領其外例多有之、然は今度東方村之者非例之義申出非分候条、右蔵屋敷地西方村一円可為支配、仍為後証絵図之面蔵地之境引墨筋各加印判、双方江下置之間此旨不可違失者也、

 延宝九辛酉年  高善左 御印

   五月廿五日 彦源兵 御印

         大五郎右 御印

         北新蔵 御印

         甲斐飛騨 御印

         松山城 御印

         稲丹後 御印

         水右衛門 御印