七三 寛延元年八月 大吉村香取社敷地境出入裁許

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(「大吉染谷家文書」市史編さん室蔵)

   御裁許絵図面御裏書写

武州埼玉郡新方領大吉村徳蔵寺并百姓共、同州同郡増林村百姓年寄源左衛門、鎮守大門除地出入裁許之事

大吉村徳蔵寺并百姓訴趣、葛西用水堀向増林村境に大吉村香取明神之社地有之処、大門拾八歩地所不足に候、増林村源左衛門我儘に切広河岸場ニ致候上、香取境内之社木を採候与訴之、増林村答趣先年御代官江相願河岸場に致候、且香取地続に源左衛門持之稲荷之社木伐採旨答之、右双方絵図面を以遂吟味処、訴訟方申立大門先除地之証拠無之、大門入口にさいかち大木弐本左右ニ有之大門境分明に候、伊奈半左衛門方江相尋処享保十八丑年増林村源太郎願出、悪水圦堀抜跡五畝歩之見取場改請河岸場附替段無相違、其上水牒【帳】に社地六畝内四畝歩大門ニ入とニ有之所拾八歩不足之由雖申、社地并大門内左右ニ松有之地所入候得は、反別八畝歩程有之ニ付、大門道不足之旨難立訴訟方中分不埒也、依之今般評儀之上香取明神大門入口左右之さいかち大木を限り、其境木より内ハ香取大門通、外は増林村地内ニ相定、尤香取明神江往来之儀無滞可致之、大門先源左衛門検地請候地所道心常西江借候節、証文不取置段源左衛門不念ニ付、早〻柾之並木取払地所可取返之、次ニ香取社地与稲荷社地境木之事双方就無証拠、絵面墨引之通リ社地境相極之、但大吉村ゟ増林村江掛リ候橋香取明神氏子供参詣之橋故、橋向道も社地之由雖申之、所〻江は往還道にて香取社地之証拠就無之、不及沙汰候、

右之通裁断畢、仍為後証絵図令裏書右加印形双方江下授条、永不可違乱もの也、

 寛延元辰年

   八月四日

      曲 豊後 印

   加役ニ付無加印

      松 河内

   御用方無加印

      逸 出羽

   御用方無加印

      神 若狭

      松 宮内 印

      青 因幡 印

      稲 丹後 印

      神 志摩 印

      馬 讃岐 印

      能 肥後 印

      大 越前 印