九九 明和二年七月 年貢米拝借願

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(市史編さん室蔵)

  乍恐以書付御願奉申上候

一当夏中日光山御 法会ニ付、加助郷被 仰付候ニ付人馬多分無御座候而は、村方田畠苅取仕付手入等肝要之時節故、有来リ候人馬ニ而は御役相勤兼候間、馬代金人足給金等御拝借御願奉申上候程之義ニ而、増人馬相抱候ハゝ御役人馬も相勤、作方も相勤リ満作可仕候得共、困窮之百姓及力ニ不申、有来リ候人馬を以御用人馬は無滞相勤候得共、作方仕付手入等仕候人馬無之、自ラ手延ニ罷成申候、外村と違別シテ早稲方之場所ニ御座候間、植付延引仕候故しゆん違ニ罷成、殊ニ草取手入殊之外手延ニ罷成、肥シ拵等人手間無之自然とやせ稲ニ罷成、御定免通リ御上納出来兼申候、依之ニ御検見も御願申上度奉存候得共、御定免之内ニ御座候間御慈悲を以一通リ御見分成シ被為下、御定免高之内五拾俵御拝借成シ被下候ハゝ惣百姓難有奉存候、若御拝借も無之候ハゝ惣百姓弁納仕候ゟ外無御座候、当年之義は朝鮮人国役金指出シ其上御法会御伝馬相勤、又候御年貢弁納可仕手当一切無御座候、御慈悲を以一通り御見分成シ被下、拝借被為 仰付被下候ハゝ、惣百姓相助り難有奉存候、以上

  明和二年酉七月    西方村

               名主 次郎右衛門(印)

               年寄 喜兵衛(印)

 万年市左衛門様       百姓 清右衛門(印)

     御役人中        (外一一名連印略)