一〇四 [文化三年十月/文化六年十一月]米価引上に付国恩金上納一件

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(『旧記四』市史編さん室蔵)

一米価下直ニ付世上一統難儀之由、依之国恩を存知身元相応之者江可及力ニ程は米籾之内買入可囲置旨御触、御支配御代官様ゟ御触ニ御座候、然ル処其後弥右衛門御呼出しニ而被仰渡候は其村方ニ高持外三人有之候間申合、右四人ニ而御買上御差加金百両差出可申段被仰付、其外御支配内所〻ニ而都合拾人御呼出御利解之上夫〻出金高被仰付候、当村方は弥右衛門四拾両、利左衛門同断、孫兵衛同断、次郎右衛門同断都合百両差出候積り

   差上申御請書之事

一此度米下直ニ付諸国一同難儀之由ニ付、御買上金御用被仰付、則私方四人ニ而百両差出し可申候、

     一金四拾両  弥右衛門

     一同弐拾両  利左衛門

     一同弐拾両  次郎右衛門

     一同弐拾両  孫兵衛

 右之通り差出可申候、此度御廻村ニ付御請書奉差上候、尤金子は来月十日迄ニ無間違上納可仕候、以上

   文化三寅十月廿九日 埼玉郡西方村

                名主 弥右衛門

                同  利左衛門

                百姓 次郎右衛門

  山田茂左衛門様       同  孫兵衛

      御役所

 右日限之通り御上納仕候、勿論其節風聞ニハ来卯四月ニ相成候ハゝ御下金ニ相成候趣則被仰聞候処、辰七月ニ相成御下ケ金ニ相成、金百両ニ付五両ツゝ之割合を以御差加金相添御下ケ被成下置候、有難頂戴仕候、

一米価下直ニ付米穀引上之ため御支配御役所様ゟ村〻廻村有之候而御利解被仰聞候は、当支配ニ而ハ村高百石ニ付米弐俵ツゝ被仰付候趣ニ被仰渡有之候得共、当村之儀は高持百姓四人先達而御買上金差出し候得は、残高は五六百石ならてハ無御座候間、村方ニ而米百拾俵被仰付度相願、右之通御聞済願之通被仰付、右請書

   差上申一札之事

一米百拾俵  但四斗入

 右は米引上之ため此度被仰出候御趣意被仰触、猶又具ニ御利解之趣小前江申聞、一同難有納得仕前書之通囲置申候、依之御請一札差上申処如件、

  文化三寅十一月一日  埼玉郡西方村

                名主 弥右衛門

                同  利左衛門

                同  茂右衛門

                年寄 長兵衛

                同  九平治

                同  藤蔵

  山田茂左衛門様       同  七郎兵衛

      御役所

 右之通囲米致し置候処、来卯四月ニ相成勝手次第引取被仰度候、

文化六巳年十一月廿三日

一米価下直ニ付米穀引上ため差加金可仕趣種〻御利解被仰聞、無拠弥右衛門・利左衛門・次郎右衛門・孫兵衛四人ニ而金子百六拾両差出候処、左之通り請取手形御渡し被遊候、請取手形とハ内実金子之出金高ハ差操有之候ニ付、共訳別段ニ書訳置候、

    覚

              西方村

一金八拾五両也          名主 弥右衛門納

 右は御買上米代之内差加金書面之通り請取候、以上

  文化六巳年十一月廿三日 山口茂左衛門手附

                 山縣太郎右衛門 印

    覚

              西方村

一金三拾五両也          名主 治郎右衛門納

 右同文言ニ御座候、

    覚

              西方村

一金弐拾両也           百姓 孫兵衛納

 右同文言ニ御座候、

    覚

              西方村

一金弐拾両可           百姓 利左衛門納

 右同文言ニ御座候、

 右之通請取手形ニハ有之候得共、正金八拾五両弥右衛門・廿五両次郎右衛門・廿五両孫兵衛・廿五両利左衛門差出置候、尤手形壱通利左衛門殿方へ渡置候、残三通弥右衛門預置、右之外金拾五両百性幸八殿上納致置候、此手形別段ニ当人江預置候、然ル処年来ニ相成候得共御下ケ金無之難儀罷有候折柄、文政四巳年稀成旱魃ニ而実〻難儀有之候ニ付御下ケ金願上候処、八条領下御支配御代官平岩右膳様ニ而ハ、早〻御伺被成候由ニ而半金ツゝ御下ケ金有之由、其風聞ニ而所〻村〻ゟ一統願出候由ニ相聞罷有候処、外御支配様之分は不残願相立不申一向御下金無之候、