一一三 嘉永五年四月 諸役出金滞出入内済書

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(慶応大学蔵)

  対談一札之事

 去亥四月ゟ当三月迄諸夫銭

 一銭四貫九拾四文     吉兵衛

 同断

 一銭拾六貫三百拾弐文   才兵衛

右は去亥四月ゟ当三月迄貴殿方勤役中、御鷹匠様方御泊り入用并御伝馬諸出金其外村方諸夫銭、書面之通り相滞候ニ付御出訴被成御調中之処、諸帳面見届候所疑気相晴聊無申分、然上は帰村之上右滞高不残相済可申候、若等閑置候ハゝ此一札ヲ以如何様共御取計被成候、為念一札差入申所仍而如件、

  嘉永五子年四月十二日   船渡村

                吉兵衛

    同村年寄 権兵衛殿    才兵衛

      同  善右衛門殿

  相渡申一札之事

一貴殿方ニ而諸夫銭相滞候ニ付、無拠今般奉出訴御調中之処示談行届、諸夫銭滞高之義は帰村之上、来ル五月七日迄ニ相済候筈我等方江受取置、且戌亥両年加助中御伝馬勤切手札其外之義は、取調之上致差引村並割合之通り貴殿方江無相違相渡可申候、為後証一札入置申所如件、

  嘉永五子年四月十二日  船渡村役人惣代

               年寄 権兵衛

   同村才兵衛殿      同  善右衛門

     吉兵衛殿

  乍恐以書付奉願上候

武州埼玉郡船渡村役人共申立候ハ、当村之義は名主壱人年寄四人ニ而御用其外取計来り、御年貢諸夫銭等ハ年寄百姓代立会諸払仕候処、百姓吉兵衛は銭四貫百九拾四文、才兵衛ハ同拾六貫三百拾弐文、嘉兵衛は同拾三貫七拾五文相滞、殊ニ当子人別ニ差掛り調印差掛、旁差支候旨訴上候処、則吉兵衛外弐人被召出嘉兵衛義は御調已前先達中、心得違相弁前書滞分不残差出し其余之もの共御調中之処、右両人義当二月中御鷹方御泊入用其外共諸夫銭懸高多疑敷段申立候ニ付、一同立会得与見届候処、聊不正之儀無之段疑惑相晴、依之吉兵衛外壱人諸夫銭滞分不残差出し可申積取極、然ル処銘〻即金難行届旨申聞候ニ付、懸合之上来ル五月七日迄限り、村方ニおゐて無相違出金可仕旨一札村役人方江取之、且又戌亥両年加助御伝馬勤切手札、其外之義は帰村之上取調清算之上差引遣し候筈、是又村役人ゟ一札差出人別調印いたし、無申分示談行届此上御吟味奉受候而は一同奉恐入候間、何卒以 御慈悲右一件御吟味是迄ニ而御下被成下置度奉願上候、以上

 嘉永五年子

    四月十二日  武州埼玉郡船渡村

            役人惣代年寄惣兵衛代兼

                年寄 権兵衛

                同  善右衛門

                百姓 吉兵衛

 竹垣三右衛門様        同  才兵衛

    御役所