(「砂原松沢家文書」市史編さん室蔵)
乍恐口上書を以御訴訟申上候御事
武州埼玉郡越ヶ谷領砂原村 御訴訟人名主惣百姓
一砂原村組頭之義、前〻ゟ三組ニ相立壱組ゟ壱人宛ニ三人ニ而極月替リ廻リ役ニ相勤来申候、政右衛門・定右衛門義名主役上リ罷有候所ニ、当五年以前組頭役被為仰付候節、三月替リニ仕候へは御半途替リ故諸事不勝手ニ御座候ニ付、去卯ノ春中名主惣百姓相談を以先年之通リ極月替リニ相極申候、去卯ノ暮之下番六左衛門・左七郎・七郎左衛門年番ニ当リ申候、左七郎・七郎左衛門両人は右相談之通リ組頭役請申候得共、六左衛門壱人は何角と滞リ請取不申候、惣而何事ニ不寄我儘致村中難義罷成候事
一毎年後谷村前原村砂原村三ヶ村ゟ 殿様江先年ゟ為御吉礼与、百姓共手作仕候牛房御年礼ニ名主罷出候節指上ケ来リ候ニ付、去極月ニ右二ヶ村ゟ相談ニ罷出候間、名主方ゟ百姓へ申渡シ候所、六左衛門申候ハ来ル辰年ゟ 御地頭様御年礼両村ゟ牛房指上申候共、砂原村ゟ成間敷と我儘申候間、残百姓斗ニ而先年之通リ手作牛房指上ケ申候御事
一去卯ノ十月中御屋敷様江御用ニ而、名主源兵衛参候節六左衛門送リ方ニ指当リ、名主方ゟ申付候得共何角と滞リ出し不申候事
一六左衛門前〻ゟ不及所者申ニ、他領江入質地を取、度〻出入仕名主五人組江戸御屋敷様まて罷出候へ共、名主送リ迎之馬只今迄出し不申候、殊ニ五人組参候而茂遣銭出し申候事無御座候、何共手銭を遣度〻罷出候義名主五人組迷惑ニ奉存候得共、御役人様より御召出しニ御座候へは、無是非罷出候事
一去卯ノ極月廿五日ニ 日光御門跡様御通リ被遊候ニ付、越ヶ谷宿ゟ人馬触状参候間、壱軒ニ而壱疋壱人宛出し申候ニ付、六左衛門江も壱疋壱人出し申様ニと申候得は、詰不申候故村方ニ而指替人馬出し御役相勤申候事
一六左衛門義度〻出入仕、殊ニ四年以前丑年名主惣百姓与及出入ニ、御屋敷様双方被為召出御吟味之上、被仰付は六左衛門不届ケニ被為思召、六左衛門年寄役御召上ケ并百姓相談ニ茂出入申事無用ニ可仕旨、急度被仰付候所ニ、一両年ハ壱人之百姓ノ様ニ村方へ罷出、百姓相談ニ用不申候、其外他村ゟ先規ノ格ヲ以相談ニ罷出候而茂潰シ、所之者難議仕候御事
右之段〻書付を以御訴訟奉願候義ハ、何事ニ不寄百姓中ニ而相談仕相極候事も、六左衛門壱人ニ而相談を潰シ我儘仕、急之御用等有之候而茂名主惣百姓及難儀迷惑仕候間、六左衛門義何事ニ不寄壱人之御百姓ニ奉願候、無是非名主惣百姓共御訴訟ニ罷出候間、御慈悲ニ六左衛門被御召出壱人百姓ニ被仰付被下候ハゝ、名主惣百姓共難有可奉存候、以上
享保九年辰正月 越ヶ谷領砂原村
惣左衛門(印)
市平(印)
治兵衛(印)
【外二七名連印略】
竹田儀左衛門様
行方平左衛門様
相定申証文之事
一此度六左衛門与惣百姓諸事御役義ニ付出入ニ罷成候、依之願書御役人様江指上御訴訟申上候、就之遣銭入目等之義何分ニ掛リ候共、蓮【連】判仕候上ハ無相違出し相勤可申候、少も違義申間敷候、若此出入ニ付御裁許之上何様之御科ニ被仰付候共、此中【仲】間ニ而出銭等相賄可申候、為其蓮判証文仕候上ハ違儀申間敷候、為後日仍如件、
享保九年辰ノ正月日 砂原村 惣左衛門(印)
市平(印)
治兵衛(印)
【外二七名連名略】
蓮判百姓不残
入置申証文之事
一今度六左衛門組頭役御伝馬役相滞リ、村中名主惣百姓出入ニ罷成 御地頭様ゟ隠居被仰付候ニ付、何事ニ不寄向後は村内江罷出構申事成不申候ニ付、我等共六左衛門親類ニ御座候へは、向後六左衛門と相談抔仕諸事御役等何ニ而も相滞リ申間敷候、若自今以後村中之相談をも相背申候ハゝ、御役人様江御訴被成候共其節少も不及違義ニ、一言之義申間敷候、為其証文一札如件、
越ヶ谷領砂原村
享保九年辰正月 六左衛門親類 杉右衛門(印)
同 市重郎(印)
同 加兵衛(印)
八三郎(印)
権太郎(印)
砂原村
御名主惣百姓中