(「砂原松沢家文書」市史編さん室蔵)
指上申扱証文之事
一此度砂原村名主并年寄中与、同村御百姓中御公用村入用出銭わリ合之義ニ付、名主与頭中ゟ御訴訟被申上双方今月廿二日御役所江被召出、御吟味御座候処ニ、江戸宿伊勢屋五兵衛取扱申候次第、左之通ニ御座候、
一毎年御年頭ニ名主出府仕、捧物等之入用之義は名主与頭共為冥賀相応ニ指シ可申候、相残リ候分村惣割ニ可仕候、
一名主組頭御用ニ付、江戸江罷出候旅宿并雑用之義、只今迄之格ニ村中割合指出シ可申候、
一御用并村用ニ而道法リ壱里之余有之場所江、名主可罷越候節荷物等持参仕候節は、持夫百姓役ニ相勤可申候、且亦霞之内へ右御用ニ而名主罷越之節、品ニ寄リ雑用等有之候ハゝ、只今迄之格茂有之ニ付右之格を以是又百姓割合差出可申候、
一名主御用村用ニ而他所江罷越候節、人足持ニ難仕荷物有之節は勿論、往来道法リ拾里余も有之候処、其日帰リ仕候節は人馬百姓役ニ可仕候、
一御 公儀御役人様、村方江御出被成候節品ニ寄御出銭等有之節は、有来ル通リ割合百姓役ニ可仕候、
一名主分引ケ高之義は、喜兵衛義は先年大浜弥二右衛門様御支配之節御吟味之上、御極置被成候通リ持高三拾石分高役引可申候、尤此已後持高相増三拾石余ニ罷成候ハゝ、右余之義百姓並ニ高役割合共ニ相勤可申候、半内義は此度取扱右喜兵衛格を以、持高三拾石分引、相残ル高之分高役割合共ニ相勤可申候、是又此已後持高相増候ハゝ、百姓並ニ割合請可申候、
右之通リ取扱双方得心仕候ニ付証文差上申候、自今以後右之儀ニ付少茂御訴訟ヶ間敷儀申上ケ間敷候、為後日証文差上申処仍而如件、
元文元年辰五月廿四日 扱入江戸宿
伊せや 五兵衛
砂原村 名主 半内
同 喜兵衛
年寄 定右衛門
同 喜右衛門
百姓 久右衛門
同 佐七郎
同 六左衛門
【外百姓一七人連名略】
御役所様