一六五 文政十一年五月 改革に付東方村議定

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(東方中村家蔵)

 【表紙】

 「 文政十一子年

  御改革ニ付別紙村方議定

   五月   東方村

          中村庄右衛門」

   取極議定連印之事

一今般御改革御取締被 仰出候御ケ条之趣一同承知仕、右御趣意相守候儀ハ勿論、都而村方取極之儀堅相守可申候事

一博奕并賭の勝負事一切仕間敷、万一賭業等携候者有之候ハゝ村議定ヲ以前〻ゟ取極之通り過怠銭為差出、其上忍表 御役所江差出可申候、尤五人組仲間ニ而相互ニ心付、他所他領ニて携候風聞たり共品〻村役人江密ニ可申通、若及見聞隠置候ものハ是又過怠可申付事

 附り博奕宿いたし候もの過怠銭拾五貫文、携候者過怠銭三貫文、博奕宿両隣過怠銭三貫文

  宿いたし候五人組過怠銭三貫文但[二重過怠/ハ除之]

一農業専ニ相励出精可致処、中ニハ未熟ニ相心得其身困窮之基を不顧不情ニ致、休日等を相好ミ候もの儘有之、却而出精之ものへ妨ニ相成甚不埒之儀ニ付、以来右様心得違之ものハ急度申立、御下知を請可申候事

一年中休日之儀是迄取極有之候得共、近年相弛若者共抔勝手儘ニ申継相休、又ハ寄合相談抔与名附会合いたし、自然少作勝ニ相成家業第一之儀を余事ニ相心得、是又畢竟困窮之基ひ心得違ニ付、猶又此度相改取極之通り以来名主中ゟ相触候休日之外決而相休申間敷、面〻家内妻子へも急度申含置、心得違無之様為相守可申候、万一何歟与異名を付休日相催し候もの有之候ハゝ急度相糺、其ものへ為過怠与村徒役五拾人為相勤、其上忍表御役所江可申立候、尤無拠儀ニ而寄合相談致度儀有之節ハ、若者共たり共其子細名主組頭へ申出差図を請可申候事

 附り二月ゟ七月迄之内朔日・六日・十五・十九日 廿四日・廿八日昼後ゟ男相休可申事、

  五月六月二ヶ月之内朔日・十五日・廿八日昼後ゟ女相休可申候事

  種蒔・田植・田之草為休日与、二日ツゝ六日、名主中ゟ触出次第男女相休可申候事 神酒百万遍ハ其時ニ寄名主中ゟ相触候事

一近来講事繁相催候、尤社堂寺等江相集り酒食等いたし候ハ被 仰渡ニ相洩候儀、且ハ右様之儀ニて相集り候得ハ自ラ賭業等之催し勝ニ相成、旁不宜事ニ付以来相止メ、都而講事与唱社堂寺等へ打寄酒食等決而致し申間敷候事

一田畑諸作物并竹木枝葉ニ至迄盗取申間敷、万一聊之儀ニても無断掠取候ものハ風聞たりとも相糺、老若男女ニ不拘過怠銭為差出、其上忍 御役所へ御訴申上候間是又面〻家内妻子ニ至迄心得違無之様、常〻急度申含置油断仕間敷候事

 附り右過怠銭之儀ハ其品より、其時〻村役人一同相談之上相極可申候事

右之趣一統熟談之上取極議定連印致置候儀ニ付、急度相守り申候、万一相背候者ハ議定取極之通り無用捨執計、其上申立御下知請可申其節毛頭非分与存不申候、為後日儀定連印仍如件、

一此度被仰出候御改革之儀も、百姓静謐ニ治り候御仁恵与乍恐奉存候、村方騒立候儀ハ多分諸勘定疑心より事興り候ニ付、是迄定式之儀ニハ候得共為念荒増書印置候事左之通り

 一御年貢斗立入用ニ限り、名主御役石ニも御助合被下候筈、

 一諸御用向ニ付村役人共名主中宅江参会之節、弁当代木銭米代みそ世話料見込、一賄銭六拾文但御年貢斗立入用ニ相掛り候分ハ一賄百文ツゝ

 一御役人賄木銭米代みそせ話料見込、一賄百文

 一諸勧化其外之宿一人一泊り百文、中喰四拾八文、但野菜料共、

 一御年貢出目御返し米一俵ニ付八合之内五割返し、弐合上乗たし、米壱合御名主筆墨代之事

 一諸勧化其外諸入用御立替之儀、一度銭五百文迄ハ村方へ御相談ニ不及御取計可被下候事

 一平年一ヶ年用紙半紙五拾状西の内五状但宗旨帳共

 一御用向其外参会等ニ御出勤之節、中喰代相当之儀ハ村方ゟ可差出候、江戸忍雑用之儀ハ八ヶ村同断、右之外村方ニ拘り候儀ニ付、御村役人御内損無之様出銭可致候事

  文政十一子五月         徳兵衛 印

                  良右衛門 印

                  源八 印

                  平右衛門 印

          〆五人組合   久右衛門 印

前書之通り一同熟談之上、議定取極連印仕候処相違無御座候、依之奥印仕候、以上

          右大組合 組頭 徳兵衛 印

               同  孫右衛門 印

               同  才兵衛 印

               同  万次郎 印

               同  清八 印

               同  定七 印

    名主

     中村庄右衛門殿