一七〇 天保十五年五月 八条領寄場道案内等届書一件

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(東方中村家蔵)

  乍恐以書付奉申上候

武州埼玉郡八条領寄場、八条村大惣代并組合大小惣代左之名前之もの共一同奉申上候、先般囚人掛縄之儀被仰付一同難有奉承伏、則懸縄寄場村江五房用意仕候、依之此段以書面御届奉申上候、以上

 天保十五辰年五月

           松平下総守領分

            武州埼玉郡東方村

              小惣代名主 孫左衛門

           同領分

            同洲同郡柿木村

              同  同  政之助

           平岡文次郎御代官所

            同州同郡木曾根村

             同年寄甚左衛門他行ニ付

              代年寄   為之助

           同御代官所

            同州同郡上馬場村

              名主    弥左衛門

           同御代官所

            同州同郡柳之宮村

              同  同  新右衛門

           同御代官所

            同州同郡西袋村

              大惣代名主 平右衛門

           同御代官所

            同州同郡川崎村

              同  同  平次郎

           松平下総守領分

            同州同郡四条村

              同  同  丘兵衛

           平岡文次部御代官所

            同州同郡寄場八条村

              大惣代名主 惣兵衛

 関東御取締御出役

    富田錠之助様

  乍恐以書付奉申上候

武州埼玉郡八条領寄場、八条村大惣代并組合大小惣代左之名前之もの共一同奉申上候、先般中被仰渡候道御案内之もの義、再応相談仕候処人物相撰御用并相勤候もの当領中無御座候間、無余儀此段以書面奉申上候、以上

  天保十五辰年五月   八条領大小惣代共

                 名前前同断

 関東御取締御出役

    富田錠之助様

猶申上候、此節は是非決着ヲ付不申候而は相済不申候間、差図ニ相成可申候間御名代無之御出被下候、晦日迄御日延相願帰村仕候義ニ候間、皆〻様御足労被下是非御出席御願申上候、

急〻持廻状ヲ以申上候、去十九日道御案内御免書面御取締様方御寄合之席、千住宿へ罷出差上候処、富田錠之助様被仰付候は、正月下旬平沼村旅宿ニ而掛縄道案内之義申付置候処、其後有無不申立候間、此方ゟ書面ニ而否可申立趣両三度申遣然ル所、是迄等閉置今日ニ至リ御免之願書ヲ以相願候得共、一躰大小惣代并村役人共心得違如何之存寄候哉、今一度寄合右之趣申聞談判仕、不承知承知之名取調書面認早〻可差出旨被仰付候、畢竟大小惣代之義ハ御用弁為宜敷申付置下役之者不差出心庭ニ候ハゝ、自分共ニ而相勤候心得ニも可有之、以来所〻被召連候間此段其方ゟ申聞可被置候趣被仰渡候、依之来ル廿八日乍御苦労太田屋彦八方へ御出席可被下候、持廻リ賃之義は御当村昇八郎此者へ御渡し可被下候、以上

  辰五月廿六日

           埼玉郡八条領三十五ヶ村組合

             寄場八条村

                名主 惣兵衛

    川崎 西袋 四条 東方 蒲生 柳之宮 上馬場 木曾根 柿木

    右御村〻 大小惣代中

急持廻状を以申上候、兼而覃仕相談候道案内之もの、可差出旨厳重被仰付候ニ付、今廿八日大小惣代共打寄評義仕候得共、惣代共而已ニ而決着相成兼、左候迚年延は難相成候間、八条村太田屋へ出宿罷在候間、明晦日朝五ツ時御名主中三判御持参、無遅滞御出張可被下候、右刻限御不参之御村方は、賃飛脚ヲ以尚又申上候間、右様御承知可被下候、此状御披見無御判御渡可被下候、

              東方  源右衛門

              木曾根 甚右衛門

   五月廿八日      柿木  政之助

              上馬場 弥右衛門

              蒲生  弥三郎

              四条  丘兵衛

              川崎  平次郎

              西袋  平右衛門

              八条  惣兵衛