(大里深野家蔵)
【表紙】
「万延二酉年正月
大房村一件願書控」
乍恐以書付御訴訟奉申上候
当 当分御預り所
武州埼玉郡大房村
小前五拾三人之内
重立百姓 新蔵
幸右衛門
次三郎
源左衛門
弥之助
みつ
吉右衛門
忠三郎
三次郎
半七郎
平八
勇次郎
利七
常吉
伝左衛門
勘右衛門
馬次郎
勝右衛門
源兵衛
右拾九人惣代
訴訟人 右 勝右衛門
同 源兵衛
不正出入
同村
相手 名主 弥五左衛門
右訴訟人勝右衛門外壱人奉申上候、相手弥五左衛門儀、去ル午三月中名主役入相成候後、役威ニ誇リ小前を見掠品〻勝手儘之取計いたし、中ニは不容易所業も有之難捨置左ニ箇条書を以奉申上候、
一弥五左衛門儀名主役入相成候後、権威を振ひ諸事自儘ニ取計、村方諸夫銭之儀親弥五左衛門勤役中ハ壱ヶ年高壱石ニ付銭四五百文位ニ而相済来リ候処、当弥五左衛門勤役以来七八百文ゟ上相懸リ、既去申年ハ壱貫百文余取立格外入用相嵩難心得懸合候得共、遣払帳面等一切為見届不申、一同難立行難渋仕候事
一去申九月中弥五左衛門儀村方入用有之趣を以金三拾両、并両度ニ金拾壱両都合金四拾壱両取立候得共、何等ニ遣払候哉、一円不相分難渋仕候事
一去申五月中越ヶ谷宿助郷村〻弐拾弐ヶ村江水災御手当金拝借被 仰付、当村ハ金七両壱分ト永百拾文鐚五貫文余不足ニ割渡押領罷在候事
一去申正月中村内百姓勘右衛門并親類勝右衛門儀、火方御召捕方船越郷左衛門様ゟ御用状頂戴仕候趣を以、弥五左衛門儀右両人呼寄申聞候は、勘右衛門儀杣職罷在、先達而樫杵宛壱本大沢町小林屋忠蔵方江売渡候由、右は不正之趣入 御聴御用状請候儀、御調受候様ニ而は入牢をも可被 仰付、左候得は家業向ニ拘リ候ニ付程能取繕可遣間、金五両可差出旨申聞候得は、全ク不正之儀無之候ニ而及断候処、出金身遁可致様達而申進候ニ付、任其意勘右衛門ゟ金三両弐分差出置、其後承リ候処郷左衛門様ゟ御用状請候儀無之、右は全弥五左衛門謀計を以金子欺取為及難渋候事
一当村は日光道中往還附ニ而 御門主様年〻六度宛御通行有之、右御通行之時〻往還筋掃除丁場小林村・中嶋村・増森村右三ヶ村分持場、当村小前共壱ヶ年鐚三貫文宛ニ而請負掃除致来候処、右請負銭拾四五年程弥五左衛門押領いたし不割渡難渋罷在候事
一小物成御年貢之儀夏秋并皆済分共一納金拾壱両ツゝ上納致来候処、当弥五左衛門親勤役以来一納之度毎金壱両ツゝ年三度ニ金三両余年来押領罷在難渋仕候間、清算之上右押領分速ニ割戻候様被 仰付度候事
一村方百姓勝右衛門儀家屋敷廻リ弥五左衛門所持之上畑四畝拾四歩之地与勝右衛門所持上畑五畝拾歩之地所与先年替地いたし、勝右衛門進退中右四畝拾四歩之内道中九尺通路相附置候処、去申四月中相談之上元地所与替地いたし前〻之通通路相附置倍賃銭差出小作罷在候処、先月廿四日理不尽ニ境外共杭木打建勝右衛門出這入通路差留難渋為致候事
前書箇条之通品〻押領不筋取計而已有之、難心得取誥及懸合候得共更ニ取敢不申、困窮愚味之私共与見掠兼而被巧置仕成候儀与乍恐奉存候、此儘差置候而は向後何様之儀仕出し可申も難計、一村之治リ方ニ拘リ片時も難捨置心外難渋至極ニ付、無是悲今般御訴訟奉申上候、何卒以 御慈悲前顕始末被為聞 召訳弥五左衛門被 召出、箇条之廉〻厳重御吟味之上諸帳面逸〻為見届、正路ニ清算いたし私欲押領取込之分速ニ割戻、同人退役一村無難ニ永続相成候様被 仰付被下置度奉願上候、以上
当 当分御預所
武州埼玉郡大房村
小前五拾三人之内
重立百姓 新蔵
外拾八人惣代
万延二酉年二月 訴訟人 勝右衛門
同 源兵衛
差添人 年寄 孫兵衛
竹垣三右衛門様
御役所