(市史編さん室蔵)
差上申一札之事
伏見宮御家来今井主殿殿不届之取計致候一件御吟味中、松村町藤重郎、京都南木之元町伊助、上州篠塚村雄右衛門、井野村冨右衛門は病死致共外之者共再応御吟味之上、左之通被 仰渡候、
一芳輔義、病身ニ而農業難相成候迚、地頭江も不申上伏見宮御家来土岐多膳殿外壱人相頼用達又ハ青士格等ニ相成、其上青士格は伏見宮限之儀ニ候処、自己ニ而御紋帯刀致し同宮御家来今井主殿殿下役之由申伝、其上同人申ニ相対ニ而貸附置候金子を、伏見宮貸附金之積取拵可取立旨申合、殊ニ御捕方として御差向有之候御役人江対し及悪口ニ候段不届ニ付、刀脇差御取上中追放被仰付候、
但御構場所徘徊致間敷候段被仰渡候、
一六之助義、岩松満治郎様御家来大舘雄右衛門義、伏見宮御家来今井主殿殿与申合、寛政九巳年以前相対貸金を宮方貸附金之積証文取拵、金銭取立候世話致し貸元共ゟ雑用与号ケ、貪取候金子之内配分可致旨任申、中山道高崎宿市左衛門外壱人江、右不筋之義申勧メ両人ゟ金銭為差出候始末不届ニ付、田畑家屋敷御取上江戸払被 仰付候、
但御構場所徘徊致間敷候段被仰渡候、
一市左衛門義、同国在国分村勝蔵親父又七江、親市左衛門貸附置候米金納滞居候処、右は寛政九巳年以前相対済被 仰出候以前之貸 御奉行所江申立候儀も不相成、取計方ニ差支居候迚萩原村六之助任申ニ、宮方貸附金之積り証文拵取立可貰与、伏見宮ゟ親市左衛門儀安永夏、金三千両之借用致侯旨之証文相認メ、同宮御家来今井主殿殿江差出候処、同人義右勝蔵呼出し早速返金可致旨之書付為差出候次第ニ至候段、不届ニ付所払可被 仰付処、全心得違之段相弁江前非後侮致関東在〻御取締として御差出し有之候御代官御手代中旅宿江訴出候ニ付、一件之者共不届之始末茂相顕候義ニ付、無御構旨被 仰渡候、
一金太夫義、大館雄右衛門不届有之御代官山本大膳様御手代中ニ被召捕侯を歎敷存、伏見宮御家来今井主殿殿旅宿へ罷越、雄右衛門差免之義相歎候節、同人被召捕候上ハ主殿殿迚も一と通りニ而相済間敷、用心可致抔申通し候故、主殿殿其外之者共義御捕方御役人江手向候積手配等致候次第ニ至り候段、不埒ニ付手鎖被 仰付候、
一又右衛門義、同人ゟ深川松村町藤重郎へ相掛り候処、出入は同人御吟味ニ不被及御沙汰ニ候段被 仰渡候、
一今井隼太・荒尾藤蔵、并源助・千次・国太郎ハ御構無御座候段被 仰渡候、
一三木大蔵権少輔殿・津田刑部権少輔殿・田中大炊頭殿・泉平左衛門大尉殿ハ京都於御奉行所ニ、夫〻御仕置被 仰付候間其旨可存段被 仰渡候、
一今井主殿殿并京都三条大橋東三丁目利助義、主殿殿与高利之金子貸附間敷旨、兼而御触茂有之処、新吉原町等江金五両ニ付壱分程之足ヲ以貸出し利分徳用いたし、其上金銭可貪取ため宮方御家来之由申偽、虚名を以旅行いたし中山道高崎宿市左衛門其外之者共を惑し、寛政九巳年以前之貸附金之積り証文取拵、武州大場村又右衛門外壱人権威を以申威し、早速金子返済可致旨之証文等差出させ、諸入用与号貸主共ゟ金三拾弐両弐分欺取、殊ニ宮方御家来ニ相成候後も乗輿之上、自分宮家金紋之長持ヲ為持、宿〻ニ而杖払人足等為差出、或ハ一旦岩松満次郎様御家来ニ成候義有之迚、同家紋付之幕を休泊之節は張置、剰へ右始末相聞御捕方衆被罷越候由承り可及殺害旨、雇若党利助江申含メ既ニ同人義御捕方衆之被召連候小ものへ十手ニ而疵為負候次第ニ至り、此ものも御捕方として御差向有之候御役人へ対し、可及刃傷ニ与帯居候脇差柄へ手を懸候始末不恐公儀ヲ致方、不届ニ付引廻し之上獄門、利助は伏見宮御家来今井主殿殿ニ被相雇同道罷下り、中山道高崎宿ニ逼留いたし居候節、主殿殿義身分不相応之旅行いたし其外品〻不届之義有之、不日ニ可召捕躰ニ付御捕方之衆被罷越候ハゝ殺害致呉候様相頼候迚、山本大膳様御手代中被罷越候節手向致し、刀を抜かけ又ハ十手を以被召連候小ものへ疵為負候段、旁不届ニ付死罪被 仰付候間、御吟味ニ付被召出候もの共は御構無御座候間、今般不罷出もの共江は其旨最寄村役人共ゟ可申通段被 仰渡候、
右被 仰渡候趣一同承知奉畏候、若相背候ハゝ重科可被 仰付候、仍而御請証文差上申処如件、
伏見宮家来下山芳輔与申立候
富田宮内知行
文政八酉年六月十九日 野州足利郡松田町
百姓 芳輔
百姓惣吉忰
千次
村役人惣代
組頭 常五郎
百姓代 善左衛門
松平錫領分
上州郡馬郡萩原村
田畑家財取上江戸払 百姓 六之助
村役人惣代
組頭 吉左衛門
赤松左衛門知行
上州緑野郡粟次村
百姓 金太夫
村役人惣代
組頭 長兵衛
伊奈友之助御代官所
武州埼玉郡大場村
名主 又右衛門
村役人惣代
組頭 六郎左衛門
今井主殿若党荒尾藤兵衛
同人中間 源助
道中
御奉行所