(「砂原松沢家文書」市史編さん室蔵)
【表紙】
「 弘化二巳年四月
無尽金源兵衛掛返し金
引当田畑一件書控 」
指出し申一札之事
上田八畝壱歩之内
一上田壱畝六歩 高壱斗四升四合 字横根方
一下田壱反弐畝廿歩 高壱石○壱升三合三勺字新道
一上畑四畝廿七歩 高四斗四升四合 字野尻り
田畑合壱反八畝廿三歩
此高壱石五斗九升八合三勺
右田畑之儀当村八三郎実父清兵衛儀、先年頼母子講取立興行仕候所、連中之内源兵衛儀身上不如意ニ付、既ニ文政度配分ニ相成候節、前書田畑を以掛返しニ取極メ、双方納得之上是迄連中ニ而所持致来り候処、此度一同相談之上上田壱畝六歩之義ハ政五郎方江質地ニ相渡し、下田壱反弐畝廿歩并上畑四畝廿七歩ハ仁助江質地ニ相渡シ、代金左之名前へ割賦銘〻受取、勿論源右衛門方江受取辻之分は同人方江割賦金相渡シ申候、且又先年ゟ政五郎義上田壱畝六歩之義は、同人方ニ而小作致居候得共、御年貢納辻斗り相納諸役出銭は連中ニ而相勤罷在候得共、今般一同連中相談之上是迄之儀は無勘定ニ而其儘差置候筈取極メ、且又源右衛門方ニ而前書上畑四畝廿七歩下田壱反弐畝廿歩之儀、小作入付方米永年〻世話いたし、御年貢米永御上納并諸役出銭等ニ至迄万事村並ニ相勤メ、年〻勘定仕立則文政度ゟ弘化元辰年迄勘定合、過不足明細ニ相分り指引勘定仕今般一同立会之上出入勘定皆済仕候上ハ、右田畑一条ニ付而ハ不依何事連中一同聊申分無御座候、依之為後証連印差出置申処如件、
弘化二巳年四月八日 砂原村
元頼母子講取立人
清兵衛忰
八三郎
喜左衛門
兵左衛門
権左衛門
万平
六左衛門
万次郎
三五郎
仁左衛門
佐五郎
平右衛門
庄蔵
宇兵衛
喜八
清助
元右衛門
清兵衛
福蔵
権右衛門
貞八
勘六
福蔵