二五四 延宝八年十月 八条村添井堀築留出入裁許

509~510/1009ページ

原本の該当ページを見る

(西方須賀家文書)

 武州埼玉郡西方村与同郡八条村添堀築留訴訟之事、野村彦太夫手代鈴木久右衛門、中川八郎左衛門手代飯嶋六郎左衛門差遣之、見分之上裁許申渡之覚

一右添堀之儀八条村上郷八ヶ村之悪水、八条村之内弐ヶ所之圦江落来候処、八条村之者柿木村与八条村境道末ニ而拾ヶ年以前築留候付而、柿木村・千疋村・別府村・四条村・見田方村・東方村よりも築留、西方村致水損之由雖申之、穿鑿之上八条村之築留何拾ヶ年以前より有来候儀不存候由、右村〻口書差出候条先規悪水落堀たりといふ共、年久築留候儀ヲ其通指置之候得は西方村障無之と相見江候、其上今度申出候儀申おくれ候事

一八条村之内悪水落圦八条村・青柳村・小作田村・柿木村・伊草村悪水落ニ而、修復之節は六ヶ村人足并竹篠出之候、西方村より柿木村迄八ヶ村は御領一同之時は各別、私領ニ相成候以後人足出候事無之由六ヶ村之者申所分明ニ候条、西方村は悪水落堀与申儀不謂之事

一八条村より末へは悪水落候儀無之由西方村之者口書指出候上は、八条村より末之添堀不及沙汰之事

右評定之面〻相談之上如此裁断訖、然ル上は西方村申所非分之条、有来築留如先規其儘可指置之、向後双方守此旨永不可違背、仍為後鑑絵図加裏書両方江壱枚宛下置之者也、

  延宝八年庚申十月廿五日

        高 善左 御印

        彦 源兵 御印

        大五郎右 御印

        徳 五兵 御印

        甲斐喜右 御印

        嶋 出雲 御印

        松 山城 御印

        阿 美作 御印