二五七 元禄十四年十二月 砂原村普請場割合願

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(「砂原松沢家文書」市史編さん室蔵)

  口上書を以願上申候

一越ヶ谷領砂原村御 城道長五百間余、内弐百三拾壱間川欠ケ御普請場并袖たしやらい弐拾壱ヶ所、先年土屋伹馬守様御知行高七千石、百姓家数弐百五拾三軒ニ而御普請被遊被下候場ニ御座候、

一堀田豊前守様御知行高四千七百石、百姓家数百五拾三軒ニ而、寅ノ年丑年ニ川欠ケ弐百七間御普請被遊被下候、并横だしやらい弐拾壱ヶ所年〻御しゆふく【修覆】被成被下候、

一三年以前寅ノ五月中、御割郷ニ被為 仰付御知行ニ相渡リ、久下作左衛門様御手代衆御割合被成候、砂原村高六百七拾八石四斗六升六合、内三百三拾石余百姓拾弐軒  米倉長門守様御知行所、残而三百四拾弐石余百姓拾弐軒御領所ニ御割合被為仰付候、右御 城道五百間余之内弐百三拾壱間川欠ケ御普請場、内弐拾五間小曾川村境目迄 米倉長門守様御知行所、残而弐百六間川欠ケ荻嶋村境目迄よこだしやらい弐拾壱ヶ所御領所ニ御割合被成候、

 右之御普請御見分之上御普請被遊被下候様ニ奉願候、古荒川さらいニ付而出水満水之時分十弐人之百姓ニ而土手かこい難成奉存候、先年之通丸村ニ被為 仰付被下候ハは難有奉存候、

一柳原壱反三畝拾八歩之所、古荒川さらいニ付而川敷ニ罷成難義仕候、柳銭御赦見被下候様ニ奉願候、以上

【元禄十四年】巳極月       越ヶ谷領砂原村

                     百姓 又左衛門(印)

                     同  伊左衛門(印)

                     同  四兵衛(印)

                     同  小左衛門(印)

                     同  市右衛門(印)

                     同  清左衛門(印)

                     同  加兵衛(印)

                     組頭 佐右衛門(印)

                     同  安右衛門(印)

                     同  市兵衛(印)

                     年寄 武右衛門(印)

                     同  彦兵衛(印)

                     名主 伊兵衛(印)

               同  茂右衛門(印)

御支配様