二七二 元文元年七月 西新井村新堰仕法議定

526~528/1009ページ

原本の該当ページを見る

(「砂原松沢家文書」市史編さん室蔵)

  差上ケ申一札之事

一武州埼玉郡荻嶋村・小曾川村訴上候は、沼向入合耕地中ニ古来ゟ悪水堀有之、両村悪水落来ル処西新井村ニ而三年以前ゟ新堰築留悪水流シ不申候ニ付、耕地水湛迷惑ニ候間、右堰取払候様ニ仕度旨申上之候

一同郡西新井村并追訴長嶋村答候は、田方百町歩余之内五拾町歩程別而高場故旱損無之様ニ、先年伊奈半左衛門様ゟ用水堀堰場御普請被成下候、然所ニ荻嶋村・小曾川村両村ゟ新堰与申立候、右堰場無之候而ハ用水引可様無御座迷惑旨申上之候、右出入絵図面ニ而難処ニ付、御代官石原半右衛門様・幸田善太夫様両御手代被差越、被懸御吟味候処ニ、先規ハ此度論堰ゟ拾五間程南之方橋際ニ有之処、三年已前只今場所江引替常ニ茂築留故、法水之節ハ逆水仕候段訴訟方申立候得共、先年橋際ニ築留候と申証拠茂無之候、然共何レニ茂悪水不障様ニ相願旨申上之候、相手方ハ論堰之義先規ゟ清兵衛堰と申、常〻築留置法水之節ハ洗堰ニ而悪水落来、尤新規之堰ニ而無之右堀筋悪水ニて無之由雖申、古来ゟ之証拠無之候、右堀入口之所往古ハ当時入口ゟ三百間程上ニ而引候得共、八拾年余以前荻嶋村地内五畝歩相対ニ而用水入口ニいたし、荻嶋村越石壱反六歩年貢米之内右畝歩之年貢堀代ニ引落シ、弐斗四升弐合宛年〻西新井村江請取候上は用水堀ニ無紛候、右往古之古堀可埋立之処、今以其通リニ致置候得は悪水流シ候而相済候、此上用水之節ハ堰築留不用之節可取払旨申之【ママ】上候、依之被仰渡候は右堰有来ル通口幅三尺四寸極メ置、西新井村・長嶋村入用之節ハ築留水行届候ハゝ早速切明ケ悪水を茂流シ、築留之内ニ而も法水ニ而悪水湛候ハゝ堰切明ケ可流之、勿論養水不足之節ハ築留悪水湛候節茂切明ケ、いつれニも双方立合致熟談向後異論無之様ニ可仕旨被仰渡承知奉畏候、若此上相背候ハゝ御科可被仰付段是又奉畏候、為後証連判一札差上ケ申所仍而如件、

元文元年辰七月   大河内孫太郎知行所

             武州埼玉郡荻嶋村

               名主  十郎兵衛

               年寄  善右衛門

             天野彦太郎知行所

               同州同郡同村

               名主  部治右衛門

               年寄  平右衛門

             芝山主殿知行所

               同州同郡小曾川村

               名主  源八

               年寄  庄八

             武蔵孫之丞知行所

               同州同郡同村

               名主  治郎兵衛

             永井伊賀守知行所

               同州同郡西新井村

               名主  源蔵

               同   藤蔵

                   徳右衛門

                   治部右衛門

             荻嶋村

               名主  善治郎

               年寄  小右衛門

               百姓代 嘉兵衛

                   久右衛門

                   新九郎

                   五郎右衛門

                   平六

                   浅右衛門