(七左衛門松沢家蔵)
【表紙】
「御料
綾瀬川藻苅儀定帳
私料 」
相定申儀定証文之事
一綾瀬川藻苅之儀壱ヶ年ニ三度ツゝ御三分様江御願上、則御出役様被遊御出候ニ付、御料私料村役人罷出御案内、仕上ケ共相勤来リ候、然処此度御領私領村役人惣百姓相談之上綾瀬川藻苅一件之儀は、御料所村役人引請相勤候筈ニ相究申候、然上は御出役様御宿之儀は御領私領高割、其外村〻ゟ罷出候村役人路用仕上ケ、船賃之儀は御料私料半〻ニ助合可申相談相究申候、
一戸塚村迄之路用壱人前七拾弐文
一草加宿迄之路用壱人前百文
一花又村迄之路用壱人前百五拾文
一仕上ヶ之砌船賃之節相掛リ候分、長取之帳面通リ差出シ可申候、
右前書之通御料私料村役人惣百姓相談之上相究申候所少シ茂相違無御座候、為其御領私領連判之取引証文、仍而如件、
武州埼玉郡越ヶ谷領七左衛門村
安永六年酉六月 私領名主 善右衛門(印)
同 清左衛門(印)
(外御料私領村役人二〇名連印略)
御領名主 嘉右衛門殿
同 平吉殿
七ヶ村取替シ儀定証文之事
一綾瀬川藻苅御役所江御頼ニ罷出候路用雑用、縦日数相掛リ候而茂此入用壱貫文
但シ伝右衛門河藻苅之儀は古来ゟ御役所江願書不上ケ御場処ニ而、御出役江願書差出スニ付、江戸願入用不助之ヲ、七ヶ村斗ニ而助合可申候事
一御出役御宿賄之儀は上下ニ而壱泊リ壱貫文
但シ伝右衛門川藻苅兼綾瀬川御見分被遊候ニ付、御宿入用之義ハ七分ハ綾瀬川附七ヶ村、残ル入用三分ハ伝右衛門附村〻助合可申候、尤伝右衛門川藻苅組合村〻ゟ戸塚村江証文取置候ニ付、三分入用ハ戸塚村勘定可致相定申候事
但シ諸入用村〻高割
一綾瀬川藻苅御見分并村〻見廻リ舟壱艘人足共ニ
此賃銭一日ニ三百文 但シ出銭七ヶ村助合可致候、
一議定之外藻苅一件ニ付入用相掛リ候儀は、其節村〻役人罷出候間、得与相談之上其砌村〻不承知之入用は除ク之ヲ、
一綾瀬川藻苅丁場村〻境掟ニ見【間】数字等慥ニ相訳リ候様ニ致置、一ヶ年三度藻苅之節ハ村限リ藻留致、左右出張柳等伐払藻草其村境江取揚ヶ可申候事、
但藻苅組合村〻河附不刈、不精成村〻有之候ハゝ七ヶ村ゟ急度相糺シ可申候事
一蒲生縄手藻草不苅ニ候而ハ、七ヶ村都而田方水腐之源ニ相成候間、村〻年〻無忘却御出役江厳敷御願申上、藻草刈払可申候事
一藻苅一件諸入用之儀は、三度共ニ仕上ヶ印形之節村〻出銭持寄急度勘定合可致候事
前書之通綾瀬川藻刈組合七ヶ村、名主年寄惣百姓相談之上、議定村〻取替シ候所相違無御座候、尤七ヶ村地窪ニ而綾瀬川藻刈出勢不仕候而ハ霖両之砌悪水差来御田地相続[ ]【虫喰】決而無御座候儀ニ付、此以後儀定相背申候村方有之候ハゝ、残ル村〻入用助合惣代ヲ以御支配様御差図ヲ請 御奉行所様迄茂罷出御願申上、急度相糺シ可申候、為後日村〻【カ】連印議定証文如件、
埼玉郡大間野村
寛政元年酉六月 名主 四郎左衛門(印)
百姓代 幸右衛門(印)
同郡越巻村
名主 仁左衛門(印)
百姓代 彦右衛門(印)
足立郡新兵衛新田
名主 利兵衛(印)
年寄 亀次郎(印)
百姓代 利右衛門(印)
同郡与右衛門新田名主代
年寄 与右衛門(印)
百姓代 幸八(印)
同郡戸塚村
名主 与左衛門(印)
年寄 次郎左衛門(印)
百姓代 伊右衛門(印)
同郡藤兵衛新田
名主 八郎右衛門(印)
百姓代 惣右衛門(印)
七左衛門村
名主中