(大里深野家蔵)
【表紙】
「須賀堀旧記調書」
須賀堀旧記
私共村〻組合用悪水路字須賀堀前〻ゟ自普請所ニ而、別紙組合高書奉差上候通、御料私領拾七ヶ村組合元荒川須賀村地内長八間内法三尺四方之圦樋ゟ用水引入、尤右圦樋入用材木・鉄物・大工・木挽等悉替岩槻御領主ゟ被下、同所前後羽口茅之儀は御料私領高割、御料分は弥十郎村御公儀様御立野茅被下置、私領分は岩槻御領主ゟ是又被下、其余人足諸色之分御料私領高割を以相勤来申候、
一右堀惣長延五千八百弐拾壱間
内長千八百三拾九間
但堀幅弐間 須賀村元圦より恩間村石橋迄
長七百六拾間半
但同断 恩間村石橋より大枝村堰場迄
長弐千五百三拾壱間半
但同断 恩間村石橋ゟ大沢町古川落合迄
長六百九拾間
但堀幅壱間 須賀村地内ゟ大口村迄
右場所前〻ゟ自普請所ニ御座候処、三拾六ヶ年以前享和三亥年尚弐拾九ヶ年已前文化六巳年、皆御入用御普請被 仰付、其後八ヶ年已前綾瀬川浚御普請御用序之節、市村宗四郎様・渡辺啓次郎様御掛リニ而浚自普請奉願上候、
一右堀浚人足諸色割合方之儀、別紙高書之通御料私領高割御料村〻江相掛リ候分は、
内助合村〻越ヶ谷領
一高弐百三拾七石弐斗 袋山村
一高弐百四拾五石五斗 花田村
一高三百五拾六石七斗 越巻村
一高六百拾八石四斗 大間野村
一同百六石 荻嶋村
小以〆千五百六拾三石八斗
内助合村〻新方領
一高弐百七拾九石九斗七升七合 大杉村
一高弐百拾四石弐斗 弥十郎村
一同三百八拾弐石六斗六升九合 大吉村
一同三百三拾八石壱升八合 向畑村
一同弐百九拾壱石六斗六合 川崎村
一同八百三拾壱石七斗弐升壱合 船渡村
一同千四百六拾八石壱斗九升八合 平方村
一同四百八拾九石四斗弐升四合四勺 備後村
一同三百七拾石三升壱合 市野割村
一同六百拾三石弐斗三升三合 大場村
一同弐百三拾石弐斗九升四合 中野村
一同弐百五拾弐石五斗四升三合 大畑村
小以〆五千弐百七拾弐石五斗九升
弐口〆六千八百三拾六石三斗九升
高三千七百九拾四石八斗壱升六合本組合御料八ヶ村
合壱万六百三拾壱石弐斗六合
右村〻内助高割を以相勤来、外ニ粕壁宿之儀は高百石当リ人足拾人以上は、半家別ニ而是又助人足相勤来申候、
一岩槻領村〻江相懸リ候分は、
高弐百六拾九石八斗壱升弐合 内助合大野嶋村
高弐千九百三拾四石三斗弐合 本組合岩付領九ヶ村
合三千弐百四石壱斗壱升四合
惣高合壱万三千八百三拾五石三斗弐升
[本組合/内助合] 共 [岩付領/新方領/越谷領]
右村〻水縁御座候ニ付、諸色之分は本組合村〻ニ而相勤、人足之儀は前書仕来書之通高割を以相勤申候、
一用水引取方之儀前〻ゟ刻限割左之通
一三刻 須賀村
一四刻 大戸村
一三刻 大谷村
一四刻 大囗村
一弐刻 大森村
一七刻 三ノ宮村
一六刻 大道村
一弐刻 大竹村
一九刻 恩間村
一拾刻 上間久里村
一拾刻 大枝村
一拾壱刻 大泊村
一拾五刻 下間久里村
一拾弐刻 大里村
一九刻 大林村
一拾八刻 大房村
一五拾五刻 大沢町
〆百八拾三刻 此日数十五日三時
右之通刻限割相定置、尤苗代時節は右刻限不拘平水ニ仕来、五月植付水ゟ順〻刻限引ニ仕、尤用水不用之村方は何れ之村方へ成共水元名主へ申越し、先約次第任望用水引取来候得共、御料私領入会水元名主差略仕候故、流末村方へは用水不行届、既ニ当年柄下郷村〻は旱損仕、中郷上間久里・大枝・大泊右三ヶ村而已千間堀土堰致し上郷悪水溜置、其上元荒川用水須賀堀早春ゟ引入候ニ付、上郷村〻大場之耕地逆水込ミ上ケ候ニ付、上郷筋年〻水腐仕右三ヶ村而已用水掛リ能ク、悪水堰下江落し勝手宜敷御座候得共、下郷村〻は水路悪敷年〻旱損仕、上下村〻共ニ水旱之愁難遁難儀困窮仕候間、何卒 御慈悲を以御定掛リ自普請所ニ被 仰付度奉願上候、
前書之通旧記仕来取調奉申上候、以上
須賀堀組合願惣代
伊奈半左衛門御代官所
武州埼玉郡大里村
天保八酉年十一月 名主 兵左衛門
大岡主膳正領分
同州同郡須賀村
名主 秀太郎
恩間村
同 嘉忠次
大森村
御普請 同 又右衛門
御役人中様