二八五 天保九年八月 出羽堀菰堰取払出入一件

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(七左衛門松沢家蔵)

【表紙】

 「 天保九年

  大堰一件谷中村訴状之控

戌八月

           七左衛門村

               上組」

乍恐以書付御訴訟奉申上候

          伊奈半左衛門御代官所

           武州埼玉郡 越ヶ谷宿

          同御代官所

           同州同郡  荻嶋村

          同御代官所

          平岡対馬守

          曾我円後守

          中条鉄太郎

          菅谷平八郎

          長山祐之助

           同州 同郡 神明下村

         大岡主膳正領分

           同州 同郡 谷中村

         米倉丹後守領分

           同州 同郡 砂原村

         大岡主膳正領分

           武州埼玉郡 谷中村

           訴訟人 組頭 八郎

         伊奈半左衛門御代官所

           武州埼玉郡七左衛門村

            相手 名主 八郎左衛門

悪水吐方差支難渋出入

右訴訟人組頭八郎奉申上候、私共組合御料私領八ヶ村組合高六千七拾七石三斗五升八合、外四ヶ村助合高弐百九拾六石都合六千三百七拾三石三斗五升八合高を以去ル文政十三寅年中、御入用并百姓役を以当組合地内出羽堀字籠場ゟ綾瀬川落合迄、浚切揚御普請被 仰付流水無差支百姓永続仕候、一躰右用悪水路出羽堀之儀用水元末田村地内字巻之上圦より西新井地内字三ッ俣迄用水路幅三間半有之、同所ゟ出羽堀字籠場迄堀幅四間ニ而同所落口ゟ字茂左脇迄堀長凡三百拾六間之間堀幅四間、夫より長千弐百七拾弐間之処幅弐間狭リ、夫ゟ下継先より綾瀬川落口迄尚又堀幅四間ニ相成、然ル処右幅弐間狭リ候場所凡拾弐間程下江越巻村・大間野村・七左衛門村右三ヶ村ニ而用水引揚候菰堰壱ヶ所有之、用水入用之節菰張ニ堰留用水引入、大雨満水之度は早速切流来リ候処、右菰堰之儀近年左右ゟ両袖築出水行漸五尺弐三寸位之竹流補理、然処四ヶ年以前未年大雨満水ニ而私共五ヶ村耕地一円水冠ニ相成、悪水吐方右築出候堰所ニ而相湛差支候ニ付、先規仕来リ之通リ右築出堰両紬共取払呉候様相手方江掛合候処、七左衛門村之内御料私領并越巻村大間野村之儀は故障之筋無之、七左衛門村名主八郎左衛門壱人ニ而取払候儀不相成段申之難儀至極仕、既ニ其節出訴可仕与奉存候処、右出羽堀助合組合之内西新井村・後谷村并用水元末田村右三ヶ村名主共取扱ニ立入、外立会人茂有之右堰不残取払以来満水之節は勿論、平年ニ而茂用水不用之節ハ堀幅ニ取払候筈対談行届熟談内済仕候、然処当七月中尚又大雨出水ニ而上郷高場より一円押流満水仕、前申上候通堀幅弐間ニ狭リ候場所江堰両袖築出し有之ニ付、悪水相湛吐方差支水腐は眼前之儀ニ付、対談通先規堀幅ニ取払呉候様相手方江及掛合候処、七左衛門村之内御料御私領共越巻村大間野村之儀ハ故障之筋無之、七左衛門村名主八郎左衛門方江再応懸合およひ候処彼是申紛シ、同人義対談違変仕不当之挨拶而已申之取敢不申難儀至極仕、左候迚此儘差置而ハ満水之度毎耕地一円稲草水冠ニ相成、徳之御田地亡所ニ可相成与村〻一統歎ヶ敷奉存候、依之不得止事無是悲今般御訴訟奉申上候、何卒以  御慈悲前文難儀之次第被為 聞召訳相手八郎左衛門被 召出御吟味之上、右両紬築出不仕先規仕来之通張菰ニ而堀幅ニ堰留、用水引入大雨満水之節ハ早速取払候様被 仰付被 下置候ハゝ、悪水吐方無差支御田地無難ニ相続仕、広大之 御慈悲与難有仕合奉存候、以上

  天保九戌年八月       【差出人前記ニ同ジ略ス】

 伊奈半左衛門様

    御役所

前書之通訴出間、組合村役人立会可済之、滞義有之は来ル廿五日可罷出もの也、

   戌八月六日

      伊奈半左衛門役所

  頼一札之事

一[御料/私領]七左衛門村・大間野村・越巻村三ヶ村組合用水土堰字茂左脇大堰之儀、此度岩槻領谷中村ゟ伊奈半左衛門様御役所江悪水吐差支難渋出入之旨申立、来廿五日御差日之御差紙頂戴被 相付候処、右堰所先規ゟ仕来之通リニ而、谷中村悪水差支之儀は無之候間、右之段返答書致し、右堰所先規仕来通ニ而相済候様御取計被下候、前書之通相違無之候、依之為後日頼一札如件、

            埼玉郡七左衛門村

             私領五給所之内

  天保九戌年八月      名主  甚蔵 印

               同   清次郎 印

               [名主代/年寄] 初五郎 印

               名主  定右衛門 印

            同郡同村御料

    同郡同村       年寄  平右衛門 印

     名主 八郎左衛門殿

  乍恐以書付奉願上候

一当御代官所外給〻五ヶ村役人惣代 大岡主膳正領分武州埼玉郡谷中村組頭八郎ゟ、当御代官所同郡七左衛門村名主八郎左衛門江相掛リ悪水吐差支難渋之旨先月中当御役所江奉願上候処、八郎左衛門をも被召出再応御理解被 仰聞候ニ付、双方篤与及懸合候処一躰願人八郎方ニ而は、当組合地内出羽堀之儀用水元末田村地内字巻之上圦より右出羽堀字籠場迄堀幅三間半、同所より字茂左脇迄之間四間、同所ゟ継先まへ之堀長凡千弐百七拾弐間之処巾弐間ニ狭リ、右弐間ニ狭リ候場所ゟ拾弐三間程下ニ而、越巻村・大間野村・七左衛門村右三ヶ村ニ而用水引揚候菰堰、近年左右ゟ両袖築出水行漸五尺弐三寸法ニ而、尤大雨満水之節ハ取払候処、七左衛門村之内御料私領并ニ越巻村・大間野村之儀は故障之筋無之、七左衛門村名主八郎左衛門方ニ而差障リ難渋仕候旨其外品〻申立、八郎左衛門方ニ而ハ右躰之儀ニハ無之、先来当村地内字茂左脇土堰之儀ハ七左衛門・越巻・大間野三ヶ村組合用水堰先規仕来リニ而、年〻高割を以入用差出右堰築立用水引取御田地相続仕来リ候儀ニ而、是何ニ而茂先例ニ相振れ堰仕立候儀更ニ無之、然ニ両袖無之候而ハ用水相保不申、此儀願方村〻ニ而も兼而承知罷在、其上右村〻高場ニ有之水災患無之、然ルヲ右躰無謂難題申掛候段難得其意、右ハ御田地相続之儀相互之儀、村内小前之もの難儀之儀ニ付、此度村役人共ハ勿論小前之もの共一同右両袖堰之儀有来候通いたし置度、若取払等ニ相成候而は難渋ニ候迚、既ニ頼証文差入候程之儀、其外品〻難渋之旨申上候ニ付、小前之もの共をも被 召出再応厚き御理解之旨双方共相弁掛合之上、前書堰之儀堀巾弐間之処以来左右両袖は壱尺五寸宛、水行ハ九尺相定堰床之儀ハ是迄之通ニいたし、用水中ハ仕来リ之通堰相仕立置大雨満水ニ而字茂左脇、大間野村・七左衛門村両村用水路〆切候程之満水之節、何時ニ而も右堰取払悪水吐方無差支様可仕筈対談取極無申分熟談仕、偏ニ 御威光与難有仕合ニ奉存候、然ル上ハ重而双方御願筋毛頭無御座候間、何筈以御慈悲右願之趣是迄ニ而、御下被成下置候様、一同連印を以奉願上候、以上

          当御代官所

           武州埼玉郡 越谷宿

                 荻嶋村

          同御代官所

          平岡対馬守

          曾我円後守

          菅谷平八郎

          長山裕之助

           同州同郡  神明下村

          大岡主膳正領分

           同州同郡  谷中村

          米倉円後守領分

           同州同郡  砂原村

           右五ヶ村役人惣代

           大岡主膳正領分

            武州埼玉郡谷中村

  天保九戌年十月七日   組頭 八郎

           当御代官所

            同州同郡七左衛門村

              名主 八郎左衛門

 伊奈半左衛門様 

    御役所

 前書之通御吟味下ヶ奉願候所、御聞済成候間為後証為取替置候、以上

   戌十月        右 八郎

                八郎左衛門