(『旧記弐』市史編さん室蔵)
日光御社参人馬勤方其外心得方
一日光御社参御成之儀申四月十三日ニ江戸御城御発駕被為遊、同月廿一目御帰府被為遊候、扨又江戸御発駕御当日鳩かや町朝四ッ時御通行被為遊候、雨ふり候而御駕籠ニ而被為有候得共両方之御駕籠之さま明ヶ候間、依之皆〻よくおかみ申候、御帰府之当日廿一日ハ天気よく御座候処御馬ニ而御 公方様御通り被為遊候、鳩ヶ谷町昼九ッ時之御通りニ付猶又能〻皆〻おかみ申候、江戸御発駕被為遊候日ハ川口御弁当、岩槻御泊りニ而御座候、十四日幸手町御弁当古河町御泊り、十五日ハおやま御弁当宇津宮御泊り、十六日大沢町御弁当日光御泊り、右之通ニ御座候由承候、御還御之節御休御泊り之儀御出之節と同断之由ニ御座候、十八日ニ日光御発駕ニ而廿一日江戸御入被為遊候、
一申四月十二日之晩ニ古河町ニ而人馬宿の小屋八軒出火ニ而焼失致し候由ニ御座候、右人馬宿之儀は国〻ゟ参り候寄人馬置家新規ニ相立申候、其小屋ニちやうちん付置候処ニ、馬共ふミ合小屋江うちかけ候ゆへ火出申候而やけ候由ニ御座候、尤其段道中御奉行所様稲生下野守様江十四日申上候得は事なく相済候由ニ及承候、
一右御成之節四月十二日十三日雨ふり申候、十四日十五日十六日十七日十八日十九日天気よく廿日雨ふり廿一日天気宜敷御座候、
一日光御社参御成之節登戸村助人馬之儀は前〻之通り越ヶ谷大沢町へ相勤申候、其節登戸村ニ而一日ニ馬壱弐疋人足三四五人ツゝ罷出候、
一享保十二未九月中ハ御成御用ニ付登戸村助人馬大門町江相詰メ申候、其節大門町越ヶ谷町共ニ助人馬相勤候様ニと御座候ニ付迷惑ニ御座候間、江戸御屋敷江御訴訟ニ罷出候得は、当分斗り之儀ニ候間両方相勤候様ニ被仰付候、大門江ハ二度罷出其以後ハ出不申、未冬ゟ越ヶ谷町江片付候而助人馬相勤申候、大門町人馬宿ちん人足壱人ニ付十六、馬壱疋ニ付廿四文ツゝ相払申候、
一御 公方様御成道鳩ヶ谷海道御通り被為遊、川口舟渡之処板橋新規ニかゝり申候、栗橋渡し場之所舟橋かゝり申候、道通り中高ニ致し砂ちらし拾間あいにもり砂有之候、
一御公方様おかみ候節ハ町家へ罷越女ハ座敷ニ而おかみ申候、男ハ子共迄家の土間ニ居手を付おかみ申候、尤敷ものハ致させ不申御触ニ候得共内証ニ而少ハしき申候、
一越ヶ谷町江定助郷之村之内岩付御知行ハ御成之節助人馬出不申候、是ハ岩付御泊りニ而岩付御地頭様御用人馬勤候ニ付相除キ申候、其外御知行所も其御地頭様御成御供被仰付候処ハ、助郷ニ候共越ヶ谷町江人馬出候儀御成之節は相除被申候、御成御供不仰付候御地頭様御知行所江助人馬前〻之通相勤申候、右岩付御領分御成御供之御知行所分相除キ申候、替り助郷ニ二郷半領ニ而上笹塚村・下笹塚村・中井村・平形村・瓦曾根村・西方村罷出候、
一在〻名主年寄別而御成ニ付役儀不被仰付候、併半左衛門様ゟ御頼ニ而溯江領ゟ竹塚村名主半蔵、大谷田村名主両人人馬差引役ニ古河江参り、八条領ニ而茂瓦曾根村幸七是ハ江戸之人馬差引役ニ参候由ニ御座候、江戸人馬小屋ハ和泉殿橋向明キ地ニ相立申候、壱間を中ゟ仕切壱人間ニ壱疋立ニ相立候由ニ御座候、
一御成之節御 公方様鳩かや海道御通り被為遊候、
一尾張様・紀州様・水戸様板橋海道申四月十一日ニ御通り被遊候、
一井伊掃部様四月十三日ニ日光海道御通り被遊候、同月廿一日ニも御帰府之節日光海道御通り被遊候、
御社参之節御賄
川口之方
[平柳 岩付/幸手 古河] 伊奈半左衛門 お山 [山田治右衛門/中嶋内蔵之助]
宇津宮 [池田喜八郎/鈴木平十郎] 大沢 [池田新兵衛/後藤庄左衛門]
日光 [長谷川庄五郎/小宮山杢之進]
日光御社参ニ付人馬五ヶ国ゟ出し積り所不足ニ付、八ヶ国ニ相究り候由、
武蔵国三千四拾七ヶ村 下総国千四百四拾弐ヶ村
上野国千四百六拾四ヶ村 下野国千四百五拾弐ヶ村
常陸国千六百七拾弐ヶ村 相模国六百五拾九ヶ村
上総国千百五拾九ヶ村 安房国弐百八拾五ヶ村
〆壱万千弐百五拾五ヶ村
高四百六拾五万六千七百廿六石余
内
高四拾四万石[江戸/日光]弐ヶ所附出し[此人足弐千六百四拾人/馬三千五百廿疋/但壱ヶ所弐拾弐万石ツゝ/]千石ニ付六人八疋割
〆
高百三拾弐万石[岩村/古河/宇都宮]三ヶ所[此人足七千九百廿人/]馬壱万五百六拾疋
〆[人足壱万五百六十人/馬壱万四千八拾疋]
高拾五万石 御泊り三ヶ所[人足三千人/但壱ヶ所千人積り/千石弐拾人割]
是は御賄勤并給仕名主
高拾七万石 御休四ヶ所 [人足三千四百人/但壱ヶ所八百人積り/千石弐拾人割]
是は右同断
高五万石 船橋弐ヶ所 [是ハ栗橋川口両所/人足諸色出し候村方]
三千石渡川有之分
合弐百拾三万三千石
御伝馬参候馬壱疋口付共米八升ツゝ可被下候事、人足斗ニハ米四升、十里ゟ遠キ所ニは其考を以多く可被下候事、五ヶ所人馬小屋其外一色入用金四千弐百両、人馬賄方槇五万六千五百弐拾束、御蠟燭三万四千弐百四拾挺其外筆紙難尽荒増ニ而已書留記置候、