三〇二 寛政十年六月 草加宿助郷議定

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(『御伝馬助郷惣代議定証文』慶応大学蔵)

  為取替申儀定証文之事

 日光道中草加宿助郷三拾九ヶ村惣代、足立郡清左衛門新【田欠】名主八左衛門、埼玉郡後谷村名主富右衛門両人ゟ、宿役人問屋年寄相手取御定宿人馬五拾人五拾疋之内日〻不足ニ相立、其外箇条を以品〻奉出訴今般及出入、再応御吟味奉請候所扱人立入熟談内済之趣左之通逸〻相極候事

一御定宿人馬五拾入五拾疋日〻立払助郷人馬継立可申所、困窮之宿方故人馬持立行届不申、依之拾ヶ年以前申ゟ巳迄九ヶ年之内助郷勘弁ヲ以、宿人馬之内人足拾人馬拾四疋ツゝ年〻不足仕候ニ付、宿助成金も上納出来年〻利倍仕候貸附と相成、当時元金五百両茂出来いたし候得は、助郷村〻ニ而も至極宿柄も相直り候儀と相心得、年季明候ニ付何ニ而も御定人馬五拾人五拾疋相揃日〻為立払可申所無之儀、人馬持立不申儀一躰盆前ニ付延引ニ相成及出入候得は、猶亦助郷ゟ勘弁いたし、当午ゟ来申極月迄御定宿人馬五拾人五拾疋之内拾人拾疋ツゝ不足致し、囲人馬五疋五人共四拾疋四拾人ツゝ日〻先勤ニいたし不残立払、其上助郷人馬ニ而継立可申候、然上は来極月中迄ニ右不足人馬不残相揃御定通り五拾人五拾疋ツゝ日〻不残急度為立払可申候、且夜詰揚人馬三疋三人之儀は、是迄詰揚ニいたし候得共、已来は囲限りニ不致鼻人馬ニ而当付日〻不残為立払可申候、

一草加宿九ヶ村江相懸候自役人馬之儀、御代官様地方江相懸り之御用向、亦は御普請御役用悪水路定式御普請御用村継御廻状、并霞組合村〻触次ゟ自普請用向廻状等持送り人足、其外都而地方一村ニ抱り候御用向ニ而御越被遊候諸役人様方継送り候人馬、是等之類ハ都而自役ニ而其村限りニ相賄、往還人馬以来は決而継【遣】ひ申間敷候、勿論日光 御門主様御休泊之節内夫人足之儀は、前〻ゟ宿内取役地借共ゟ罷出相勤近来等閑ニ罷出候ニ付、前〻之通り為相勤可申候、并御鷹方御休泊之儀は地高懸りニ而御扶持米も被下置候儀ニ而、此上往還人足ニ而御休泊り内夫相賄候得共、已来は地方ニ而右内夫人足賃米引請買上を以地方ゟ差出可申候事

一助郷村〻江人馬触当之儀は、畢竟老人子供弱人馬等有之自分過触ニと相成候ニ付、已来は右躰人馬差出不申過触も無之助郷出人馬相減候様取計可申候、尤当日盆中【カ】之儀は無拠筋ニ而人馬遅参不参有之候ハゝ、御継立差支無之様惣代之者共より右不参人馬之分雇出ニいたし、御荷物ニ随ひ人馬操出、可成丈御荷物為持切分御継立相賄可申候事

一助郷村〻出人馬通帳之儀は、已来其日限り宿役人印形いたし相渡可申候、縦日〆帳出来兼候共通帳之義は其日限り可致候、勿論日〆清帳之儀は成丈其日限り印形いたし、宿方一冊助郷控帳江も同様ニ宿助郷連印為取替可申候事

一御継立人馬札揚之儀、是迄之通り助郷会所ニ而宿助郷人馬共立払札揚相調、大御通行之節は宿前後最寄宜敷場所ニ而札揚立払、人馬宿助郷共ニ問屋年寄惣代一同相改可申候、右之段宿人馬之者は不及申下役之者共迄問屋年寄方ゟ厳敷申渡置、聊心得違無之様取付可申候事

右之通今般扱人立入双方得心之上和談いたし、逸〻儀定相極出入熟談内済仕候上は、右ヶ条之趣已来双方共ニ異論ニおよひ申間敷候、万一右儀定双方共ニ相背候者御座候ハゝ、此証文を以何分ニも申立其節一言之儀申上間敷候、為後日双方并扱人連印儀定為取替置申候所仍如件、

           日光道中草加宿

  寛政十午年六月    助郷三十九ヶ村惣代

              清左衛門新田

           願人  名主 八右衛門

              後谷村

           同   名主 富右衛門

             篠葉村

           同   年寄 織右衛門

             草加宿問屋年寄惣代

           相手     勝右衛門

           同   同  次郎右衛門

           同   年寄 次兵衛

             千住宿

           扱人     市兵衛

           同   年寄 六右衛門