三〇五 文化九年 草加宿伝馬屋敷貸賃等控

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(『御用書留』大沢福井家蔵)

  日光道中草加宿之訳

一御伝馬屋敷百弐軒半 但八ヶ村組

  南草加 原嶋 谷古宇 北草加 宿篠葉

  吉笹原 与左衛門 立野  〆外弥惣右衛門新田

一地子免許壱万坪

  但百弐軒半ニ割 壱軒三畝歩宛割渡し

  残七百七拾五坪 問屋場敷地并脇屋敷へ割合申【カ】候、

一弥惣右衛門新田は地子免許無之候ニ付、三役も相勤申候、

一屋敷壱軒分大略間口七八間位、堅三拾五間ゟ四拾間位迄、大概壱反壱畝歩前後ニ有之、野地田畑共凡壱町四五反歩 弐町五六反ゟ三町位迄有之由

一御伝馬役壱軒分役金三両宛、但問屋も壱軒役年寄も壱軒役、馬役歩行役右同断、外ニ右壱軒役ニ付地役之儀壱分弐朱宛相掛り候、是ハ伝右川藻刈三度浚とも并用水井筋、其外共壱ヶ年ニ人足拾三四人ゟ廿人位迄出候分入用

一往還伝馬屋敷地代貸方之義

 一[間口壱間/立十間ゟ拾弐間迄] [元弐朱弐百文/今弐朱五百文] [文化八年ゟ/同 九年迄]

 一[長屋間口壱間/染間弐間]   [元壱分五百文/今壱分壱貫文] [文化八年ゟ/同 九年迄]

    但し大引敷込片壁付候而貸渡し候積

一右屋敷間口貸渡候裏之方七八畝歩之処、畑ニ見平均地代金弐分位ニ而貸切申候、

一八郎左衛門屋敷貸地之義ハ、間口壱間ニ奥行七間ニ文化九年ゟ相改貸渡候由、外屋敷ハ前〻之通間口壱間ニ奥行拾間ゟ拾弐間迄有之候由、并八郎左衛門屋敷裏長家通地代之義は、壱坪ニ付壱ヶ月拾弐文宛上ケ壱ヶ年百五十文積之由、