(『御用書留』大沢福井家蔵)
日光道中草加宿之訳
一御伝馬屋敷百弐軒半 但八ヶ村組
南草加 原嶋 谷古宇 北草加 宿篠葉
吉笹原 与左衛門 立野 〆外弥惣右衛門新田
一地子免許壱万坪
但百弐軒半ニ割 壱軒三畝歩宛割渡し
残七百七拾五坪 問屋場敷地并脇屋敷へ割合申【カ】候、
一弥惣右衛門新田は地子免許無之候ニ付、三役も相勤申候、
一屋敷壱軒分大略間口七八間位、堅三拾五間ゟ四拾間位迄、大概壱反壱畝歩前後ニ有之、野地田畑共凡壱町四五反歩 弐町五六反ゟ三町位迄有之由
一御伝馬役壱軒分役金三両宛、但問屋も壱軒役年寄も壱軒役、馬役歩行役右同断、外ニ右壱軒役ニ付地役之儀壱分弐朱宛相掛り候、是ハ伝右川藻刈三度浚とも并用水井筋、其外共壱ヶ年ニ人足拾三四人ゟ廿人位迄出候分入用
一往還伝馬屋敷地代貸方之義
一[間口壱間/立十間ゟ拾弐間迄] [元弐朱弐百文/今弐朱五百文] [文化八年ゟ/同 九年迄]
一[長屋間口壱間/染間弐間] [元壱分五百文/今壱分壱貫文] [文化八年ゟ/同 九年迄]
但し大引敷込片壁付候而貸渡し候積
一右屋敷間口貸渡候裏之方七八畝歩之処、畑ニ見平均地代金弐分位ニ而貸切申候、
一八郎左衛門屋敷貸地之義ハ、間口壱間ニ奥行七間ニ文化九年ゟ相改貸渡候由、外屋敷ハ前〻之通間口壱間ニ奥行拾間ゟ拾弐間迄有之候由、并八郎左衛門屋敷裏長家通地代之義は、壱坪ニ付壱ヶ月拾弐文宛上ケ壱ヶ年百五十文積之由、