(『御用留』大沢福井家蔵)
文化十四丑四月中旅籠屋所左衛門順番之御用宿不相勤候ニ付、問屋源兵衛方ゟ御訴訟申上候所、御吟味中日延之上大沢町弥五左衛門、越谷宿小左衛門扱ニ立入詑入候ニ付、則御吟味願下ケニ相成候書付写
乍恐以書付奉願上候
日光道中越ヶ谷宿大沢町役人惣代問屋源兵衛ゟ御訴申上候、当宿之義往還御用向一体ニ相勤来候所、去子三月中大沢町本陣脇本陣并旅籠屋問屋場其外共ニ不残類焼仕、御往来御継立之義ハ同十二月中迄越ヶ谷問屋場ニ而引請相勤候得共、御用宿之義御差支ニ相成候ニ付、重キ御方〻様ハ前後之宿方へ御休泊御繰替差掛り候、御宿御定式御用宿之義ハ、本町旅籠屋大沢町無難之旅籠屋三軒并茶屋三軒之者共差加へ御用宿為相勤候内、去秋中旅籠屋共家作ニ取掛り候処、同十月中拝借被仰付、家作過半出来仕ヶ成ニ御用宿為相勤候へ共、未家作皆出来不仕もの多有之候得共、無難之旅籠屋共差加へ順〻御用宿相勤、差掛り候節ハ頼宿等いたし相勤漸其場は間ニ合せ候義共度〻有之候処、右之内旅籠屋所左衛門義ハ、去子六月中家作出来仕新宅ニ而旅人止宿稼而已専らいたし、御用宿順番触当候而も族人止宿逼留之者有之、又は家内病人有之由申立相勤不申候ニ付、宿役人ゟ種〻利解申聞候得共、我威申募相勤不申不取締ニ相成御用御差支ニ罷成奉恐入候儀ニ付、右所左衛門被召出宿並之御用宿相勤候様被仰付度旨奉願候ニ付、所左衛門御呼出ニ相成追〻御吟味之上御利解被 仰聞、所左衛門義も屈腹仕是迄御用宿勤不足之分ハ勤埋仕、此上宿役人ゟ触当次第無差支相勤、以来右体之始末無之様可仕候、且又無拠故障有之候ハゝ御用宿繰替ニ相成候共、是又早速勤埋可仕内済致度所左衛門申之、依而ハ宿役人方ニ而も一同納得之上和談内済仕、偏ニ 御威光与難有仕合ニ奉存候間、何卒以 御慈悲御吟味是迄ニ而御下ケ被成下置候様一同奉願上候、以上
文化十四丑年六月 [越ケ谷/大沢] 宿役人惣代
問屋 源兵衛
旅籠屋 所左衛門
大貫次右衛門様
御役所
文化十五寅正月右所左衛門始外旅籠屋共一同不仁気ニ而【カ】、御用宿順番勤方等我儘申之候者多有之甚以不穏成、二月下旬ゟハ 日光諸堂社御修復御見分御役人様方、并蝦夷地御役人様方御交代ニも相成差支ニ及候間、其段大沢町年寄共ゟ為訴上御出役御見分之上夫〻大中小品定之上、御用宿勤方被仰付候御請書
差上申一札之事
日光道中越谷宿之内大沢町之義、去〻子年三月中過半及類焼候ニ付、願之上旅籠屋拝借被仰付、右を元ニ致し銘〻家作仕難有仕合奉存候、然処未普請向皆出来も不相成向も有之、諸御用宿御差支ニ相成候段宿役人ゟ申上候ニ付、為御見分被成御越逸〻御見分御座候所、全小分之御用宿をも難勤分ハ聊之義ニ御座候ニ付、大之分ハ早〻取懸リ追〻取繕之上御用宿可相勤、其外当時ケ成ニも御間ニ合候分ハ間数并家作之模様を見繕ひ宿役人ゟ可触当間、猶此上心ニ及丈は取繕いたし当リ次第決而無違背麁略ニ不心得、可相勤旨被仰渡一同承知奉畏候、且触当之義ハ渡世相休候程之義ハ格別、其余之分ハ聊無依怙贔負順番ニ可触当、其上ニも故障申者御座候ハゝ召連訴出旨宿役人共へ被仰渡候間、其旨可有心得趣被 仰渡是又承知奉畏候、仍御請証文差上申所如件、
日光道中越ヶ谷宿之内
文化十五寅年 大沢町旅籠屋
二月廿日 百姓 伝吉
清吉地借 新八
本陣権右衛門代 次左衛門
百姓 清吉
伊右衛門地借 嘉助
同 甚八
百姓 源兵衛
同 次助
伊左衛門地借 文五郎
利八郎地借 覚右衛門
同 利七
百姓 利八郎
太郎兵衛地借 佐次右衛門
喜左衛門地借 伊兵衛
同 此吉
脇本陣 伊左衛門
[太郎兵衛/市右衛門]地借 次郎右衛門
百姓 次左衛門
彦右衛門地借 次郎兵衛
百姓 嘉右衛門
政右衛門地借 長兵衛
百姓 弥兵衛
同 太助
照光院地借 太右衛門
同 佐七
百姓 伝兵衛
弥兵衛地借 伊兵衛
弥五左衛門地借 直次郎
同 繁八
太郎兵衛地借 又左衛門
同 惣四郎
同 嘉七
同 喜三郎
脇本陣 彦右衛門
百姓 所左衛門
代 太右衛門
百姓 茂兵衛
立権右衛門地借 新兵衛
松権右衛門地借 重助
百姓 安五郎
同 甚兵衛
喜左衛門地借 権衛門
同 嘉右衛門
年寄 弥平太
百姓 長兵衛
同 政右衛門
長兵衛地借 重左衛門
百姓 嘉右衛門
大貫次右衛門御手代
桑山時右衛門殿
前書被仰渡候趣私共一同罷出承知仕候、依之奥印仕候、以上
越ヶ谷宿
寅二月廿日 問屋 喜兵衛
同 八右衛門
同 源兵衛
年寄 半兵衛
同 兵左衛門
同 弥惣右衛門
大沢町
名主 太郎兵衛
問屋 権右衛門
年寄 利左衛門
同 彦右衛門
同 七右衛門
同 弥右衛門
同 伊右衛門
同 弥平太
差上申一札之事
私共家作御見分御座候所、御上通リ之分今以出来不仕候ニ付、日光 御門主様并諸家様御通行も追〻有之候義ニ付、早〻取掛リ仕立上ケ可申候、一体脇本陣役之義ハ別段拝借等も余計被仰付候儀を、只今迄皆出来も不相成段心掛不行届、乍然此上余程手数も可相懸趣ニハ御座候得共、当五月 御門主様御下山之節御休泊等不相成様於有之ハ、厳敷御糺可有之間右以前ニ急度皆出来御届可仕旨被 仰渡、一同承知奉畏候、仍御請証文差上申所如件、
文化十五寅年 日光道中越ヶ谷宿之内
二月廿日 大沢町脇本陣 伊左衛門
同 彦右衛門
大貫次右衛門様御手代
桑山時右衛門殿
前書之通被仰渡私共一同承知仕候、依之奥印仕差上申候、以上
寅二月廿日 越ヶ谷宿 問屋三人
年寄三人
大沢町 名主壱人
問屋壱人
年寄五人
差上申一札之事
私共家作之儀、今以行届不申御用宿難相勤併銘〻旅籠屋渡世仕候上ハ、御用宿不相勤と申義ハ不相成義ニ付、此上出情仕当五月中迄ニハケヶ成ニも御用宿相勤候様可取繕、尤私共之内ニも実〻差支此上家作取繕之手段難出来候者も可有御座候得共、間ニは随分出来可仕身分ニ而等閑ニ致置候者も有之哉ニ風聞も及御聴候も有之、人〻貧福之義ハ自分ニ而何程相隠候ても、宿内一統之者存居候事に候間、出来候身分ニ而此上ニも等閑ニ致置候者於有之は、被逐御穿鑿厳敷可被 仰付候間、銘〻正路ニ心掛御用宿相勤リ候様取繕可仕旨被 仰渡、一同承知奉畏候、仍御請証文差上申所如件、
文化十五寅年 日光道中越ヶ谷宿之内大沢町
二月廿日 清吉地借 新八
利八地借 覚右衛門
同 利七
喜左衛門地借 伊兵衛
同 此吉
[太郎兵衛/市右衛門]地借 次郎右衛門
政右衛門地借 長兵衛
弥五左衛門地借 直次郎
弥五左衛門地借 繁八
太郎兵衛地借 惣四郎
同 嘉七
百姓 茂兵衛
権右衛門地借 重助
喜左衛地借 嘉右衛門
百姓 長兵衛
大貫次右衛門様御手代
桑山時右衛門殿
前書被仰渡之趣私共一同承知奉畏候、依之奥印仕候、以上
寅二月廿日 越ヶ谷宿 問屋三人
年寄三人
大沢町 名主壱人
問屋壱人
年寄六人
大沢町旅籠屋大中小名前書上帳
大宿之分
権右衛門 清吉 弥平太
伊左衛門 嘉助 喜右衛門
彦右衛門 源兵衛 次郎右衛門
治左衛門 治助 直次郎
七郎兵衛 弥兵衛 惣四郎
吉右衛門 喜三郎 米 長兵衛
佐七 新兵衛
所左衛門 安五郎
橘 権右衛門 甚兵衛
中宿之分
伝吉 此吉 繁八
甚八 次郎兵衛 又左衛門
文五郎 嘉右衛門 茂兵衛
覚右衛門 茂左衛門 嘉右衛門
利八郎 伝兵衛 政右衛門
佐次右衛門 伊兵衛 重助
小宿之分
新八 伊兵衛 嘉七
利七 中 長兵衛 重左衛門
右は大沢町旅籠屋共義、御立会御見分奉請、大中小仕
訳仕印形取置申候所、前書之通相違無御座候、以上
寅二月 大沢町年寄 弥平太
同 伊右衛門
同 七右衛門
同 弥右衛門
同 彦右衛門
同 利左衛門
問屋 権右衛門
名主 太郎兵衛
大貫次右衛門様御手代
桑山時右衛門殿
寅四月十九日廿日廿一日廿二日、所左衛門義順番之御用宿不相勤候ニ付、当番問屋ゟ訴訟致候写
乍恐以書付奉願上候
武州埼玉郡越谷・大沢両宿役人惣代問屋八右衛門、年寄弥兵太奉申上候、大沢町旅寵屋共御用宿勤方之義、去〻子三月中類焼仕候以来、家作元〻の如く出来兼候者多有之候、然処右町旅籠屋所左衛門義ハ外家並ゟも早速家作仕、外旅籠屋出来揃候迄ハ一切御用宿不相勤相対稼之旅人而已止宿為致、其上外旅籠屋出来揃候而も彼是難渋申之相不勤候間、其段去丑四月中御訴申上候所、御召出之上段〻御吟味御取調中、扱人立入宿役人共へ詑入役宿勤不足之分ハ追〻勤埋仕、以来宿役人共申付方相背申間敷旨済口証文差上候得共、其後勤埋も不仕罷在候故、外旅籠屋共之義も一統御用宿勤方等閑ニ差心得候者多有之、差掛リ候御宿等ニハ時ニ差支御詫証文等差上候事とも粗有之、宿役人共一同安心不仕候間、其段当二月中御訴申上候所御聞済被成下、惣旅籠屋共御出役御見分御取調之上、大中小旅寵屋共順番掛札仕、病人故障等有之家業相休居候程之者ハ、順番之宿相越候ハ格別、家業致居候者ハ急度可相勤旨、尤差合等有之候共順番ニ相当リ恨ものハ、外宿へ当リ宿之者ゟ頼合致可相勤旨御請証文差上申候、然処所左衛門義出入一件ニ而江戸詰罷在候留主中之儀は、ケ成ニも順番之御宿相勤申候得共、此節帰村中ハ彼是難渋申之宿相勤不申候義、当月十九日 日光山江諸家様御代参御方〻様御泊差掛リ被仰付候間、右御宿申付候処旅人逗留有之候旨申之候間、其夜ハ無余儀先順番へ繰越候間、翌廿日ニ至リ尚又右同断御代参様方御宿申付候処、又候旅人差合有之趣申聞候間、此夜も無余儀先江繰越同廿一日之夜ハ臨時之押宿申付候処、是又旅人逗留多之趣申之候得共、責而ハ二三夜相渡し候而成共一巡之宿相勤候へハ廉立不申義と奉存、兎角宿役人共方ゟ穏便之取計仕度候間、同廿二日夜御普請役神谷貞吉様御宿申付候所是又旅人多分有之、宿難勤旨申之難渋被致候間、右逗留旅人之義ハ外〻に相片付申候共、又ハ外宿江致頼合候而成共相勤候様申聞之候得共、兎角不当之挨拶而已申之候間、今般無拠此段御訴奉申上候、尤去年中済口証文差上候勤埋之義も一切不仕候得共、年を越当二月に至リ相改御請印奉差上置候義、如何之心底と御座候哉、難渋而已申募候始末何共難心得奉存候、尤右所左衛門義宿法之役宿不相勤趣なと、外旅籠屋共及見聞不取締之基ニ相成難儀至極仕候間、所左衛門義被 召出、逸〻御吟味之上以来難渋不仕候様御取〆リ被成下置候ハゝ、宿内治リ方宜敷御用宿無御差支難有仕合ニ奉存候、猶御礼之義ハ乍恐以口上可奉申上候、以上
文化十五寅年五月二日 日光道中[越谷/大沢]両宿役人惣代
問屋 八右衛門
年寄弥 平太
大貫次右衛門様
御役所
乍恐以書付奉申上候
日光道中越谷宿大沢町問屋年寄共奉申上候、当二月中御出役様被成御越、日〻大中小旅籠屋御用宿掛札仕、順番ニ相勤候様厳敷被仰付候所、大沢町旅籠屋所左衛門義、当四月十九日御用宿順番ニ付宿役人ゟ触当候所相拒、廿日廿一日廿二日共触当候へ共相勤不申、等閑ニ致置候而ハ右被仰渡不埒ニ相成、外旅籠屋共不取締之基ニ付、両宿問屋年寄共相談之上無拠惣代問屋八右衛門、年寄弥平太を以御訴申上候所、所左衛門并親類組合江御差紙被下置候間、所左衛門へ親類組合差添可罷出旨申聞候所 御役所様を軽シ差添も無之所左衛門壱人出府仕、乍恐御差紙表ニも相振候致方と奉存候、剰目安掛リ出入同様返答書を以答上ケ、惣代両人へ対シ品〻余事を申掛ケ候段、彼は悪事可相遁巧と相聞へ候間、此度之一件落着後申立候ハ格別出入好之働と奉存候、尤御用宿宿役人ゟ触当候義決而無之旨所左衛門申立候由承知仕候得共、乍恐正月元日ゟ大晦日迄日〻無間断御用向取計候宿役人とも、組下旅籠屋江申懸等仕候而ハ、第一役儀難相勤大勢之組下都而之儀申争ニ相成候而ハ、逸〻書付取引不仕候而ハ難相成、往古ゟ御用宿ニ付右様之申争出来候義決而無御座候、然処所左衛門御用宿難渋仕候而已不成、却而宿役人共一同ニ而申上候儀申争と相消候心底ニ相聞へ、以之外強情者ニ御さ候、既ニ御用宿相拒候義ハ不限此度ニ、去丑四月中御訴申上候節宿役人江相詫、御用宿不勤之分勤埋仕候筈済口証文差上候得共、今以勤埋不仕眼前証拠有之候勤方ニ相賑【ママ】し、外旅籠屋共一統御用宿勤向差〓候者自出来致差支ニ及候間、無余儀二月中御見分御出役奉願候所、御出役之上夫〻御見定御用宿順〻勤候様、御取締御請証文差上候始末ニ御座候ニ付、其後旅寵屋共義日〻掛札仕相勤来候、然処右所左衛門義ニ限リ此度迚も触当候段相違無之処、法外中募其上宿役人共之内右訴不存者有之候扞と申立候由承知仕候得共、右体之宿役人有之候ハゝ宿内騒動為致候、所左衛門へ同腹之者と奉存候間名前申立候様御吟味奉願上候、且又去月下旬ゟ所左衛門義如何之巧御座候哉、当時之御用宿可相勤旨申之説得共、御吟味中ニ付御役所様江御伺之上ハ格別相対ニ而ハ難致旨申聞置候、
前書申上候通御用宿之義ハ宿役人共自己之取極ニ無之御出役様被成御越被仰付候所、猥ニ相成候ゆへ不得止事御訴申上候所、所左衛門方ニ而ハ何を証拠ニ御用宿触当無之と申立候哉、向後宿役人ゟ触当候義申争ニ相成候而ハ、其時〻書付を以取計候ゟ外無之、左候而ハ御用向不弁理ニ相成宿方難取治リ、去丑四月中済口証文差上置候義所左衛門違変仕、御用宿不勤分今以勤埋不仕、元来所左衛門相拒候的証有之、其外御差紙表ニ相振レ親類組合も不召連訴状外之趣品〻申立、旁不法ニ募御用向之義宿役人与申争候様相成候而ハ、宿役人一同難相勤候間、何卒以 御慈悲偽謀斗申上候始末逸〻御吟味之上、明白ニ相分リ候様宿役人一同連印を以奉願上候、右願之通御聞済被下置候ハゝ一同難有仕合ニ奉存候、以上
文政元寅年六月 越ヶ谷宿
大沢町
問屋 権右衛門
同 喜兵衛
同 八右衛門
同 源兵衛
年寄 利左衛門
同 彦右衛門
同 半兵衛
同 七右衛門
同 兵左衛門
同 弥右衛門
同 伊右衛門
同 弥平太
同 弥惣右衛門
大貫次右衛門様
御役所
出入一件之義扱人池上新田名主太郎左衛門殿、越谷本町小左衛門殿ゟ取扱ニ立入候趣意書之写
取扱趣意
一所左衛門義年来旅箱屋渡世仕来リ、脇本陣差合等有之節ハ、右御宿をも相勤、殊ニ四ヶ年以前 御神忌之節脇本陣同様御手当金被下置候義も御座候ニ付、以来右次と名目致し是迄之通脇本陣差合等有之節、同人方ニ而相勤可申、依而ハ旅籠屋ゟ少〻手広ニ不致候而ハ差支候儀ニ付、類焼家作御手当拝借金之内家作出来兼、当時旅箱屋相休罷在候者之分宿役人差略を以、脇本陣並家作為手当所左衛門江拝借為致、返納之儀ハ年限通同人ゟ返納可致事
一右一件度〻掛合有之候得共不行届破談御届申上候、尤扱人太郎左衛門ゟ破談ニ相成候趣意書差上申候、
乍恐以書付奉願上候
越ヶ谷・大沢両宿役人惣代問屋八右衛門奉申上候、大沢町旅籠屋所左衛門義、当四月中御用宿不相勤候ニ付、其段御取締被成下度旨訴上候一件、当時御吟味ニ御座候、然処私義段〻御年貢斗立時節ニも相成候得共、私組之義年寄共も無之候而、在所ニ不罷居候而ハ御差支ニ罷成候間、何卒私義帰宿被仰付被下置度奉願上候、尤右一件ニ付御糺之義ハ問屋権右衛門引請御答可申上候間、此段御聞済被成下置候様偏奉願上候、以上
文政元寅年十月十日 問屋 八右衛門
引請人 問屋 権右衛門
大貫次右衛門様
御役所
右之通十月十日代リ合御聞済ニ相成申候、然処所左衛門義申上候は、来二月ゟ勤不足之分勤理仕度旨申上候ニ付、其段八右衛門ゟ外宿役人江及示談有無之趣権右衛門方迄申越候上、猶又委細権右衛門方ゟ申上候様桑山時右衛門殿ゟ被仰渡候、
一十月廿一日御役所江罷出候処、八右衛門ゟ右挨拶申送候哉御尋御さ候、未申送無之候得共所左衛門我威を申上候迚勤埋可致筋ニも有之間敷奉存候、此段不勤之義去丑四月中源兵衛ゟ訴上候一条も有之、猶又当寅四月ニ至右体之義有之候上ハ、是非当二月中御取締被成下候御義も有之候上ハ、御取〆リ方被成下候得ハ、勤埋之沙汰ニハ及申間敷筋と於私ニハ相心得罷在候、尤近日八右衛門ゟ申送次第否可申上旨申上之候、
一同月廿九日御役所へ罷出候処、八右衛門否之義御尋御座候ニ付申上候ハ、八右衛門儀年寄役有之一条ニ付、中町半兵衛、新町兵左衛門・弥三右衛門ゟ地方御役所へ訴出候義ニ付、八右衛門へ御差紙御差出有之候処、八右衛門義病気ニ付組頭小左衛門罷出、十一月二日迄日延願上候義有之間、来月三日ニハ八右衛門出府可有之様猶又申上置候、
一十一月四日御役所江罷出候処、猶又右否之義御尋御座候得共、未申送之義も無之候、然処昨三日八右衛門出府可有之奉存候処、病気差重リ取伏罷在候由組頭源右衛門訴上候由申上之候而、火附盗賊方御改安藤弾正少弼様御役所江罷出候、
一安藤弾正少弼様御役所江百姓質屋三平煩ニ付代与四郎、百姓旅籠屋清吉煩ニ付親類源次郎、権右衛門地借旅籠屋新兵衛煩ニ付代亀太郎、右三人召連届書を以申上候処、御白洲江被相廻御掛小柳津市郎兵衛様ゟ被仰渡有之候ハ、渡辺孫左衛門殿此度御役御免被仰付候ニ付、天竜一件当役所江引取候間其旨可心得旨被仰聞、大沢町江里数御札ニ付六里余と申上候処、一先帰村被仰付追而御呼出可有之旨御申聞、請書之義無之御申渡斗ニ御座候、依之此段以書付支配御役所江も御届申上候、
一安藤弾正少弼様御組脇屋曾平様、川越勝太夫様御在出之節、高畑組へ紺屋日雇ニ歩行候岩次郎と申者被召捕御差送相成、右岩次郎ゟ河内屋次郎左衛門、中町太兵衛地借忠右衛門質物取置候ニ付、十一月五日右御役所江罷出候様御吟味先ニ而御請印差上候ニ付、右両人罷越候間召連着御届申上候、同月八日一件口書被仰付両人之者帰村被仰付候、此段支配御役所江も御届申上候、
一所左衛門勤埋一件ニ付問屋八右衛門ゟ申送無之候ニ付、不申上置候之処右之否不申出旨ニ付、問屋八右衛門、年寄弥平太両人江早〻罷出否可申立旨、支配御役所ゟ御差紙被為遣候、依之飛脚伝馬を以弥兵太方ゟ病気之義申越候、幸年寄兵左衛門外御用出罷在候ニ付、書付相認加印仕差上申候、左之通
乍恐以書付奉願上候
越谷・大沢両宿役人惣代年寄兵左衛門奉申上候、大沢町はたこ屋所左衛門御用宿不相勤一件、先達而御届奉申上問屋八右衛門罷出御吟味中、引合之者共も被召出所左衛門不勤之分来卯二月ゟ勤埋可仕旨申上之候ニ付、外宿役人共へも其段及相談否可申上旨被仰渡、先月十日御年貢斗リ立時分ニも相成候ニ付、権右衛門へ代リ合願上候処、御聞済之上帰村被仰付候処、右之否未不申上候ニ付、今般八右衛門・弥平大義御差紙を以被召出炭得共、八右衛門義先月下旬ゟ病気罷在候ニ付、当 地方御役所ゟ御呼出之節組頭小左衛門代リ合ニ罷出、年寄役之義取極猶又当月三日ニ否可申上之処、右八右衛門義重病ニ相成取伏罷在候ニ付、組頭源右衛門右 御役所へ罷出候始末ニ御座候、尤年寄弥平太儀も病気ニ罷在候ニ付、出府難相叶奉恐入候間、此段御聞済被成下度奉願上候、尤快気仕候ハゝ右両人之内罷出御吟味可奉請候得共、何卒御純之義も御座候ハゝ問屋権右衛門江御尋被下置度旨、先達而願上置候通被成下度奉願上候、尤此間中所左衛門不勤勤埋之義、八右衛門ゟ申送候ニ付、役人共打寄御用宿不勤之分取調候処、当四月十九日ゟ此節迄十四廻リ来進有之候得共、来卯二月ゟ勤埋なと申義ハ乍恐有之間敷義と奉存候、此段御用宿之義御鷹匠様方御捉飼最中ニ而、此節専被成御在村候処、大沢町之義ハ拾ヶ領元宿ニ而日〻御休泊御逗留等有之候処、日光御修復御用掛御役人様方御引払蝦夷御用之御方〻様御帰府多打込日〻御用宿繁御座候ニ付、外旅籠屋共も彼是申居候処、先達而訴上候所左衛門義差添之者も無之、駈込訴仕候出入之兼帯ニ致居候得共、御取締之御沙汰も無之由宿内江流布致候様ニ成候儘、右風儀を見聞及ひ外はたこ屋共之義も我勝ニ聊之病人故障申立、或ハ亭主他行等申置又ハ逗留旅人差合等之義申之、御用宿繰越之義申者多日〻御差支出来致候得共、彼是申宥或ハ余分之銭差出頼宿等仕、御間を為合候事共追〻御訴可申上候得とも、公事而已相重リ候義ニ付差控居候間、此段御賢察被成下御取締之義偏奉願上候、尤八右衛門・弥平太両人病中ニ御座候間此上御糺之義御座候ハゝ、権右衛門引請罷在候義ニ付、御吟味被仰付下置度是又奉願上候、以上
文政元寅年十一月九日 越谷宿役人惣代
大沢
年寄 兵左衛門
引請人 問屋 権右衛門
大貫次右衛門様
御役所
右之通願書差上候処、桑山時右衛門殿御披見御聞届有之被仰聞候ハ、先達而ゟ所左衛門一件之義八右衛門ニも申聞候通、四月十九日ゟ御用宿不相勤旅人差合之義申候ハゝ、問屋場へ呼寄厳敷申聞候而不取用候ハゝ、組合親類共一同呼寄心得違之旨得与利解申聞、其上ニも不取用候はゝ其始末可訴出之処、無其義定使共順番之掛札相遣し候迄ニ而、聢与掛合も無之候故右訴出候始末ニ相成候段、畢竟宿役人共突留候申付方も無之不行届筋ニ相当リ候ニ付、勤不足ニ相成候分来卯二月ゟ勤埋司致旨申立間勘弁可致、若其段承知難相成候ハゝ当時ゟ旅籠屋順番之宿、一度勤埋之宿壱度ニ順〻ニ差送、不足之分勤限未進無之様和談可致旨御利解被仰聞候、依之答上候ハ御用宿及難渋候義、当四月十九日順番之宿訴状ニも申上候通申付候処、宇都宮宿古着屋旅人逗留多候ニ付繰越呉候様申聞候ニ付無余儀繰替申候、同廿日ニ至候処右同断之義申聞候ニ付、宿役人共方ゟ情〻申付候得共不相用、同廿一日ニ至候而も右同様之儀申之候ニ付、彼是申付候得共不取用、同廿二日御普請役神谷貞吉様御泊ニ付、御名札認玄関柱へ張付御宿之由申聞候得共、右同様古着屋旅人逗留之由、依之差合有之由申聞候間日〻故障差合之儀申候も程限有之候ニ付、最早旅人片足合候而成共可勤旨申聞候得共、御名札之義相へがし差戻候間、所左衛門義問屋場へ可罷越様申遺候処一切不罷越、其上自分ゟ口走り旅人止宿差合ニ付御役宿不相勤候間、御支配役所江訴出候共勝手次第可被致候旨、不法之義答遣候間無余儀訴上候始末ニ御座候、然処右之者方へ訴状被遊御下返答書被仰付候義ニ付、所左衛門方ゟも右一条申披無之候ニ付、御用宿当込不申義抔申上其外品〻不法之余事相認及異論候次第ニ相成候段歎敷奉存候、何分以来之御取締被成下候得は、其段相守申候義ニ而不勤ニ相成候分迚勤埋ニ相拘り候義ニ而は有之間敷旨申上候、然処御掛様被仰聞は先達而定使共御用宿札掛ニ参候節相難候ハ、其段掛合行届証拠印形取訴出可申筋之処、無左候間申争ニ相成申候、尤達而取〆リ之義願候迚厳敷手鎖等相掛牢舎申付候而成共吟味口可為致と申程之義ニも無之、全所左衛門強情ハ兼而承知罷在候義ゆへ、一先勘弁致相片付申候様、有之間敷哉之旨御申被成候、此段私共ニおゐてハ別段ニ手鎖牢舎等之義彼是と願上候義ニハ無御座候、後来旅籠屋共一同不法之儀無之、御用宿順〻大切ニ相勤御用弁第一御差支無之様相願候迄ニて、御大法ニ准し御取締被仰出候 御奉行所様之御下知相守申度奉存候通ニ御さ候、尤類焼拝借一件ニ付右之者駈込訴中上候一条ニ而、私被召出罷在候一件内済方之手段ニもと外役人共届上候様御賢察有之候得共、決而左様之義ニハ無御座候、私共一件及内熟候とて御用宿一条之義疫眼を茶ニ而療洗候様成義難仕置候間、追て御吟味願上候様申之退出仕候、