三一七 文政十二年八月 大沢町食売旅籠屋一件裁許請書

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(市史編さん室)

  差上申一札之事

日光道中越ヶ谷宿之内大沢町旅籠屋共儀、食売女抱方不埒之取計いたし候趣入御聴ニ御支配伊奈半左衛門様御役所ニおゐて一通御礼之上、当 御奉行所江御差出ニ相成、再応御吟味之上左之通リ被 仰渡候、

一大沢町旅籠屋共之儀、所左衛門外三拾四人江壱軒壱両人宛、新規喰売女抱入之儀当分之内御差免ニ相成候砌リ、以来右女抱入又はいとま遣候節は、是又食売女差置来リ候吉五郎外廿壱人之者共、一同御差図受可取計旨、御支配御役所ニおゐて被 仰渡有之段承知乍罷在、吉五郎外壱人は過人数相抱所左衛門外三拾四人ハ右弐拾弐軒之もの共江内実抱貰、或は抱入茂無之を差置候趣ニ申合、人別帳江惣旅籠屋壱両人宛相抱候積リ銘〻印形致差出、右被仰渡之趣麁略ニいたし候始末不埒ニ付、過料銭五貫文ヅゝ被仰付候、

 但惣旅籠屋共一同以来食売女差置間敷旨被仰渡候、

一大沢町問屋名主年寄共儀、旅籠屋所左衛門外三拾四人江壱軒壱両人ツゝ新規食売女抱入之儀、当分之内女抱入又は暇遣候節は食売女抱来候吉五郎外弐拾壱人一同、御差図請可取計旨御支配御役所ニおゐて被仰渡有之段乍相弁、吉五郎外弐拾壱人ハ過人数相抱、所左衛門外三拾四人は、右弐拾弐軒之もの方江内実抱貰或ハ抱入茂無之を差置趣ニ申合、惣旅籠や壱軒江壱両人ツゝ抱置候様人別帳江相違之名前書出候茂乍心付、連印いたし差出、其上年寄太右衛門・弥平太ハ食売女過人数抱置、太右衛門八抱入は無之を差置候趣ニいたし成候始末、一同不埒ニ付問屋・名主并太右衛門・弥平太ハ過料銭拾貫文宛、其外年寄共一同ハ五貫文ツゝ被仰付、

但太右衛門・所左衛門ハ以来食売女差置間鋪旨被仰付候、

一彦兵衛・弥五左衛門ハ不埓之筋無之御構無御座旨被仰渡候、右被仰渡之趣一同承知奉畏候、且過料銭之儀は三日之内中村八太夫様御役所江可相納旨、被仰渡是又承知奉畏候、若相背候ハゝ重科可被仰付候、依之御請証文差上申処如件、

         伊奈半左衛門御代官所

           日光道中越谷宿之内

              大沢町

                吉五郎

               外弐拾人惣代

  文政十二丑年        佐右衛門

    八月十九日       所左衛門

               外三拾五人

                所左衛門

                四郎兵衛

               問屋

                宗弥

               名主後見

                雅之丞

                太郎兵衛

               年寄

                弥五左衛門

                政右衛門

                太右衛門

                忠右衛門

                弥平太

               年寄組頭

                彦兵衛

               右惣代

                宗弥

                弥平太

                弥五左衛門

                彦兵衛

 道中

  御奉行所