三二三 弘化五年 本陣御休泊御用日記

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(『御休泊御用日記』大沢福井家蔵)

正月廿三日

 日光御門主様      御下山 御小休

二月廿五日

 長善小池坊権僧正様   日光江 御昼休

三月廿六日

 立花主膳正様      江戸へ 御泊

四月朔日

 田村右京大夫様     同   御昼休

四月二日

 堀田摂津守様          御昼休

四月五日

 上杉弾正大弼様         御泊

四月六日

 丹羽右京大夫様         御泊

四月十一日

 有間備後守様          御昼休

四月十二日

 日光御門主様御名代       御小休

四月十三日

 日光御祭礼奉行内田豊後守様   御泊

四月十八日

 京都御勅使万里小路殿様     御休

四月十八日

 日光御名代武田左京大夫様    御泊

同日

 日光御祭礼奉行内田豊後守様  とらや御泊

同日

 日光御神酒永井遠江守様    草加泊御通行

四月廿二目

 仙台大将様       御下向 御泊

四月廿三日

 因幡少将様       御参詣 御泊

四月廿六日

 丹羽越前守様      御入府 御泊

五月七日

 日光御門主様      御登山 御小休

五月廿一日

 織田兵部少輔様     参勤  御泊

五月廿三日

 日光御門主様      御下山 御小休

五月廿六日

 溝口主膳正様      江戸  御泊

六月八日

 盛岡南部弥六郎様        御泊

六月廿八日

 生駒主殿様           御泊

七月十七日

 南部弥六郎様          御泊

七月廿日

 有馬備後守様      稲葉屋方御昼休

七月廿日

 南部甲斐守様          御泊

七月廿九日

 秋田安房守様          御泊

九月七日

 日光御門主様          御小休

九月十一日

 鳥居丹波守様          御昼休

九月十三日

 日光御名代横瀬美濃守様 上大黒屋休御通行

同日

 日光御祭礼渡辺備中守様 上大黒屋休御通行

十一月廿日

 鳥居丹波守様          御昼休

十一月廿五日

 松平周防守様          御泊

  日出度御用覚始

尚〻泊所之面〻御承知候ハ、名下江印形被致候様存候、以上

一筆申入候、然は丹羽左京大夫殿為参勤、当四月朔日拉致発駕道中七日径ニ而江戸着之積リ候、依之泊所左之通リ候間御請合候様致度、尤人馬等之儀は追而可申入候、恐〻謹言

  申正月六日        白石平治(花押)

                  印

               和田有文(花押)

                  印

     従二本松笹川村迄宿〻

              [名主/問屋]共

 須賀川 白坂 佐久山 宇都宮 古河 越谷

須賀川 藤井半右衛門殿  白坂  白石周右衛門殿

佐久山 井上勘左衛門殿  宇都宮 上野新右衛門殿

古河  吉沢与市殿    越谷  福井権右衛門殿

 草加千住江戸御着 但杉戸御休

  差上申御請書之事

当四月朔日二日之内 御大守様御参勤被遊候ニ付、当四月六日七日右両日之内当宿江御泊被 仰付難有仕合ニ奉存候、尤其節御差支之義は無御座候、依之御請一札奉差上候、以上

  申正月十二日        福井権右衛門

 丹羽左京大夫様御内

      近藤清司様

   覚

 一銭弐百七拾弐文 御上御壱人様

 一同弐百四拾六文 御次御壱人様

 一同弐百四拾文  御下壱人様

  〆

右之通御旅籠代御取極被下候処、相違無御座候、以上

  正月十二目         福井権右衛門

 二本松様御内

      近藤清司様

   覚

 一白米壱升ニ付  銭百四拾八文

 一塩 壱升ニ付  同四拾八文

 一胡摩壱升ニ付  同弐百八文

 一同油壱升ニ付  同壱貫百文

 一酢 壱升ニ付  同百八拾文

 一玉子壱ッニ付  同弐拾文

 一昆布壱わニ付  同弐百八文

 一酒粕壱升ニ付  銭百四拾八文

 一沓 拾足ニ付  同三百文

 一御馬壱疋ニ付  同四百八拾文

  〆

右之通リ以所相場ヲ奉書上候通リ相違無御座候、已上

  申正月十二日       福井権右衛門

 二本松様御内

      近藤清司様

 御壱人泊二百文払、定例茶くわし少〻進上

  乍恐以書付奉願上候

一日光道中越谷宿御本陣福井権右衛門、問屋市兵衛奉申上候、福井権右衛門親弥三郎義、去来年十一月廿一日隠宅ニ罷在候処病死仕候間、御登山御旅館之義同宿高橋仁右衛門方江被 仰付難有仕合ニ奉存候、然ル処最早忌明ニ相成候間何卒以 御慈悲ヲ福井権右衛門方江御旅館被 仰付候ハゝ、一同難有仕合ニ奉存候、依之以書付御願奉申上候、以上

  申正月十日    日光道中越谷宿

              御本陣 福井権右衛門

              問屋    市兵衛

 日光御門主様御内

     朝倉隼人様

右願書之義之かじや清左衛門ヲ相頼、御目附朝倉様江差上申候、

日光御殿ゟ

 願之趣及御沙汰処、権右衛門忌明ニ付 御還府之砌は同人宅江御小休御旅館ニ相成候間、此度敬承可致候、以上

  申正月十五日    日光御内朝倉隼太【ママ】

             越谷宿御本陣

                 福井権右衛門

              問屋   市兵衛

 前書之通リ 日光ゟ御封状ニ而御送リ被下候、

  正月十八日午刻 但外ニ壱封拝見致候、

正月廿三日

 日光御門主御方様  御小休

  定例之通リ 御花献上御供方江餅進上

   宿方入用

 草履・わらんし・内夫・胡摩弐袋・玉子四包・炭壱俵

  但御目附様江壱袋玉子弐包 御割元様江同断

一金百疋 御目録被下置、

 御目附朝倉隼太様 御割元石川小三郎様

一銭弐貫三百文   会所勘定場ゟ足銭

 〆

一四月廿二日 発駕

一同 廿五日 替之日 但道中十二日振

右之通リニ而当四月 陸奥守殿 日光江参詣直〻被致下向候、取調ニ候所休宿差支有無証状被相出可願事

千住 草加 越谷 粕壁 杉戸 幸手 栗橋 中田 古河 野木 儘田 小山 芋から新田 小金井 石橋 雀宮 宇都宮 野沢 徳二郎 大沢 今市 初石 日光

 右は御参詣相済候ハゝ、宇都宮ゟ御国許江御下向ニ相成候、

一当四月廿二日御当日御差合無御座候、同廿五日御替日御差合有之御休仕兼候、尤同廿三日廿六日之義御差合無御座承知奉畏候、依之御請奉差上候、以上

  申正月廿七日        福井権右衛門

以廻状申入候、然は 主膳正来ル三月廿日在所奥州下手渡発駕為参勤江戸江被致通行候条、泊左之通差支無之候ハゝ宿下江被致請印早〻順達可給候、若差支之宿も有之候ハゝ其旨宿継ヲ以拙者方迄御申越可有之候、尤発駕以前罷越委細御懸合可申候得共、右之趣前広申入度如此ニ候、以上

  二月五日        立花主膳正内

                  中嶋秀匠(印)

三月廿日 本宮泊  同廿一日 矢吹泊

同廿二日 芦野泊  同廿三日 佐久山泊

同廿四日 宇都宮泊 同廿五日 古河泊

同廿六日 越谷泊  承知奉畏候

猶以此廻状早〻順達、千住駅ゟ深川高橋屋敷江御届可給頼存候、以上

  乍恐以書付奉御伺候

右は当四月廿五日廿八日右両日之内御屋形様御下向御泊御定日ニ御座候、当年之義は御下向御泊被 仰付候ハゝ難有仕合ニ奉存候、然ル処追〻外御大名様方御越等も御座候間、何卒御左右とも被 仰聞被成下置度様御伺奉願上候、以上

  申二月廿日    日光道中越谷宿

             御本陣 福井権右衛門

江戸表

 松平肥後守様御内

  道中御掛リ御役人中様

 右は大吉ヲ以御願上候

一四月五日  御本日   一同七日 御替日

  同日   千住宿休   同 越谷泊

  六月八日 幸手休    同 古河泊

右は四月廿五日御本日、同廿八日御替日何れも七日御道中ニ而御通行之積リ、御定日被成置候処、当年之儀ハ右日並被相廻候、明日は前文御日並之通リ御休泊被仰付、宿〻故障之筋無御座候、依之御受証印奉差上候以上

  申二月廿二日

一当四月五日 御本日  一同七日 御替日

右は当四月五日之義は、丹羽左京太夫様御替日ニ御請申上候間御差合ニ御座候、同七日之義は 上杉様御本日ニ而御請申上候間御差合ニ御座候、尤同廿五日廿八日之義ハ御差合無御座候、以上

                福井権右衛門

 松平肥後守様御役所

前文ニ下ケ札之分ケ

  添而奉申上候、当四月三日同四日之儀ハ

  御差合無御座候間、此段被 仰付候様奉

  願上候、已上

  道中十二日径

 宿割

三月廿日奥州一ノ関御発足

三月廿八日 小金井泊  三月廿九日 野木休

同     幸手泊   四月朔日  越谷休

同     千住泊   同     江戸着

田村右京太夫為参勤当三月廿日在所奥州一関被致発足、道中十二日径前書宿割之通被致旅行候、右宿〻差支不申候哉、追而宿割之者為差登候得共、先以承リ様役人共申聞候、差支不申候は銘〻請判被致度候、追而差支之品出来候は早速在所一関江通達頼入候、出立已後之日積リ候は旅中迄江申越候様首尾頼入存候、以上

  二月         田村右京大夫内

               佐野幸左衛門

               木村彦八

 右は二月廿四日拝見御請申上候、