三二五 嘉永三年八月 助郷勤高に付答書

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(市史編さん室蔵)

  乍恐御尋之儀ニ付御請奉申上候

青山録平支配所日光道中越ヶ谷宿役人惣代一同、并定助郷惣代とも奉申上候は、当月於日光山ニ 御法事有之ニ付、当宿増助郷被仰付宿助郷打込人馬無甲乙御継立御用無滞相済難有仕合ニ奉存候、然ル処右増助郷村〻之内竹垣三右衛門様御支配所、武州埼玉郡増林村大吉村之義、最初増助郷高之儀村方自儘勝手ヲ以取拵候村高差出候間、一卜通掛合候得共押而右之旨申張候間御用中之儀も有之、其儘延引仕置此節日〆帳仕上ケニ至リ候処、定助郷村〻右両村勤高之次第一体之振合不相成候而は、日〆帳調印一同運印難相成旨申聞候ニ付、右両村は取調奉願上候処、両村を呼出御糺御取調之処当村申立候ニは増助郷村〻内、外村〻ニも諸引有之旨申立候ニ付、其段は如何有之哉之趣御尋二御座候得共、外村〻之儀は村高ゟ順道之引方ニ而、何れも示談ヲ以定助郷は和融仕穏ニ相治リ居、調印無異儀可仕程之儀ニ付、別段御取調之義は折合候儘ニ而御差置被成下度奉願上候、尤右願之通御聞済被成下候而も定助郷村〻ニおゐて御願ケ間敷義無御座候旨私共迄申付候、右之趣一同連印ヲ以奉願上候義ニ御座候、右願之通御聞済被成下置候ハゝ宿助郷とも一同安心仕難有仕合奉存候、依之御尋御請旁〻奉願上候処如件、

            青山録平御代官所

             日光道中越ヶ谷宿

  嘉永三戌年八月十二日   問屋 市兵衛

               同  彦右衛門

               同  幸左衛門

               同  弥兵衛

               同  長兵衛

               同  清左衛門

               同  新左衛門

               同  鳳之輔

               年寄 弥平太

               同  利左衛門

               同  伊左衛門

               同  嘉右衛門

               同  権右衛門

               同  庄之助

               同  伊兵衛

               同  市蔵

               同  次郎右衛門

            米倉丹後守領分

             武州埼玉郡後谷村

              助郷惣代

               名主 次平

            青山録平御代官所

             同州同郡袋山村

               名主 忠右衛門

            同御代官所

             同州同郡花田村

              加助郷立会

               名主 豊蔵

            同御代官所

             同州同郡荻島村

               名主 長左衛門

            同御代官所

             同州同郡大林村

               名主 弥五郎

 宿〻御取締御掛り

    大木猪平太様

前書写差上候通相違無御座候、尤右連印之内長兵衛義は御用ニ付出府落印、且市兵衛儀は病気之由申断出席不仕候間、右両人は落印ニ而奉差上候間此段奉申上候、以上

   戌十月十五日    右越ヶ谷宿

               問屋 彦左衛門

               同  鳳之助

 青山録平様御役所

   下ケ札文言

本文外村与申立候は、足立郡藤八新田・新兵衛新田・久左衛門新田・埼玉郡瓦曾根村・西方村五ヶ村ニ而、順道之引方ニ而示談仕候旨、申立儀は右五ヶ村は前〻ゟ増助郷被仰付候度毎村高之内諸引有之、残高ニ而勤来候義ニ御座候間、今般之義も前〻ゟは諸引高引去、残高八分勤之積ニ而示談仕候宿役人共之心得ニ御座候、依之此段下ケ札ヲ以奉申上候、以上

   戌十月         問屋 彦左衛門

               同  鳳之輔