三六九 寛政四年六月 不義差縺れ一件

741~742/1009ページ

原本の該当ページを見る

(「砂原松沢家文書」市史編さん室蔵)

  乍恐以書付奉願上候

一御領分埼玉郡砂原村百姓吉右衛門奉申上候、越谷宿富士浅間江例年五月晦日男女共江参詣仕、私妻茂参詣仕候所、同村金右衛門妻大林村松原与申所ニ待居、私妻江難渋申掛ケ及口論候所、同村吉蔵・由右衛門・杢左衛門三人之者茂浅間参詣帰掛テ立合、双方之存寄承取静メ呉候由ニ而、及暮ニ右三人ニ而私妻同道致シ、金右衛門妻与及口論彼是取静メ候故帰リ及延引候間、いつれニ茂三人江子細之儀は貰請候旨申之罷帰リ候所、村内若者共之内重右衛門忰重蔵、新六忰文左衛門、友右衛門忰六左衛門、太郎兵衛忰喜左衛門右四人之者共先立ニ而、其外大勢酒樽壱ツ持参致私方江罷越、此間金右衛門妻与私妻口論之儀相済為祝儀酒壱ツ給可申旨申之、子細不存候得共大勢ニ而持参致彼是申候而はいか様之儀出来可仕茂難計預リ置候処、跡より吉蔵・由右衛門・杢左衛門三人罷越私方江申候は、是迄樽預り置候間樽開代金可差出旨申聞候間、右三人ニ而いつれ共取計呉候様及挨拶候処相済不申、私儀は当時勝手に付名主半兵衛店借請小売酒屋渡世罷在候処、右一件ニ付店立被申渡身上難相立難儀之段私妻江申聞候所、私妻申候は金右衛門度〻参無心申掛候ニ付、無致方是迄不儀いたし居候、依之半兵衛方ゟ茂店立申付儀ニ存尤之由申聞候ニ付難差置、私妻儀は金右衛門方江預ケ置、名主喜兵衛并五人組江相断添書相願候得共致呉不申、無是非奉願上候、何卒御慈悲を以右金右衛門并若者共頭取重蔵・文左衛門・六右衛門・喜左衛門一同被召出御吟味被成下置、私身上相立候様奉願上候、尚又委細御尋之上口上ニ而可奉申上候、以上

  寛政四子年六月    埼玉郡砂原村

               百姓 吉右衛門

 米倉長門守様

     御役所

  乍恐以書付御訴訟奉申上候

           武州埼玉郡砂原村

            百姓金右衛門煩ニ付代

          訴訟人 忰    仲右衛門

          同   同人親類 佐五右衛門

 内済仕候処又候破談ニ候出入

            同村

          相手  百姓   吉右衛門

右訴訟人仲右衛門・佐五右衛門両人奉申上候、当五月晦日同国越ヶ谷宿浅間江私親金右衛門夫婦并同村吉右衛門妻、杢左衛門右【ママ】由右衛門妻彼是道連ニ而参詣罷越候処、右吉右衛門妻私母与途中ニ而及口論ニ申候処、右杢左衛門・由右衛門并同村吉蔵取扱ニ立入当六月二日内済仕候、右内済之儀ハ吉右衛門妻其節指居候櫛笄損シ候趣ニ付、為右代金六両壱分差出内済仕候、然ル処如何之存寄ニ而候哉又候及破談候趣申、其上吉右衛門女房ヲ召連親金右衛門方ヘ参リ、種〻不埒成難渋被申掛、金右衛門へ右女相預ケ申候、右躰及内済候儀を種〻難渋を申、女被相預候而は甚難儀仕候、殊更内済義破談ニ候ハゝ、右金子等を相返候上[ ]【虫喰】破談ニも可申候処無其儀、又候出入致被掛何与茂難心得奉存候、畢竟取扱人立入及内済致又候及破談[ ]事巧ニ致候義与乍恐奉存候、此上及出入候而は困窮之百姓難儀至極仕候得共、無是非今般御訴訟奉申上候、何卒御慈悲ヲ以右相手吉右衛門被 召出、御吟味被成下置候様奉願上候、以上

  寛政四子年六月    武州埼玉郡砂原村

              百姓金右衛門煩ニ付代

            訴訟人 忰  仲右衛門

                [同人/親類] 佐五右衛門

 御領主様

   御役所