(『御用書留』大沢福井家蔵)
差上申一札之事
武州葛飾郡松伏領松伏村庄右衛門後家はつ方へ盗賊押込、下男富五郎を縛置はつを〆殺金子盗取候段御支配御役所江訴出、御手代中御見分之節右富五郎部屋莚之下ニ金子入置候始末疑敷相聞へ、同人被召捕其外引合之者共一同御吟味請候処、今般当 御奉行所へ御差出ニ相成、猶又再応御吟味之上左之通被仰渡候、
一とよ義朋輩富五郎主人はつを〆殺金子盗取候始末ハ 致熟睡不存候共、盗賊這入縛候段富五郎申聞候を実 事と相心得、右之次第不存段如何ニ付、盗賊押込声立候ハゝ可切殺旨申威し候故、怖敷相成打臥罷在候段可申立旨任申ニ、一旦相違之義を申立候始末不埒ニ付押込被仰付候、
一太郎兵衛・岩次郎・伊三郎・勝五郎・竹右衛門義ハ、はつを富五郎〆殺金子盗取候始末ニ拘リ合候義ハ無之候而も、富五郎・松之助一同手合ニ加リ、村内香取山ニ而廻リ筒賽博奕致し、其後竹右衛門手合ニ不加其外之者共申合、猶又右場所ニ於て同様博奕いたし、竹右衛門ハ同村由兵衛宅ニ於て同人并名前住所不存者共手合ニ加リ、廻筒賽博奕致候始末不届ニ付、五人共重敲被仰付、村役人共ハ御叱被置候、
一善九郎義得与糺も不致村役人へも不申聞、無宿文助を数月雇置候段不埒ニ付、過料銭三貫文被仰付候、
一大川戸村名主年寄共、村内善九郎方ニ無宿文助を数月雇置候始末、兼而申付方不行届故之義不埒ニ付、名主ハ急度御叱被置、年寄共御叱被置候、
一富五郎義博奕ニ打負候ゟ、主人はつ所持之金子可盗取与存候ニ付、去申六月廿八日夜はつ居間〆リ有之戸を固辞明立入、葛籠ニ手を掛候節はつ目を覚し声懸候ニ付押伏、首筋へ縄を巻〆殺右葛籠ニ有之候金拾四両壱分弐朱取出し表江出候砌、兼而両人ニ而盗ニ入候積申合置候村内松之助罷越候間、最早はつを〆殺金子取出し候旨申聞、弐両致配分外ゟ盗賊押入候体ニ致候ハゝ相顕申間敷与存、松之助ニ為縛同人ハ立帰候、跡ニ而朋輩下女とよを呼起し、盗賊ニ被縛候旨偽縄を為解、右体之義不存罷在候而ハ如何ニ付、盗賊抜身を以威し怖敷候故打臥候趣ニ、主人其外へも申聞可然旨とよへ申教へ、隣家百姓作兵衛方へ両人共走参右之趣申成為相知、夫ゟとよ一同はつ居間へ立越候節、同人変死を見請とよ仰天致候を倶〻驚周章之体ニ致成、右作兵衛并村役人共等罷越候節も品能申紛罷在候始末、重〻不届至極ニ付二日哂一日引廻シ鋸挽之上磔、松之助ハはつ下男富五郎其外之者共一同致博奕、富五郎ハ打負候迚主人はつ方へ這入、同人を押置金子盗取可逃去段富五郎任申ニ同意いたし、去申六月廿八日夜深更ニ及ひ罷越候所、最早はつを〆殺金子盗取候段富五郎申聞、金弐両配分致候を請取、剩盗賊押込候体ニ致成候積及示談、富五郎を縛置立帰候始末、巧成致方旁不届至極ニ付、引廻獄門被仰付候間、其段可存段被 仰渡候、
一吉五郎并文助先達而御吟味ニ付、被召出候者共ハ不埒之筋も無之、一同御構無御座、今般不罷出者共ヘハ其段可申通、松伏村由兵衛ハ致欠落行衛不相知其旨可存段被仰渡候、且文助義は光輪寺へ御引渡被遊候段、是又被 仰渡候、
一富五郎盗取候金子之内、御取上被置候処ハはつ親類共へ被遊御渡難有奉存候、
右被 仰渡之趣一同承知奉畏候、若相背候ハゝ重科可被仰付候、且過料銭之義ハ三日之内大貫次右衛門様江可相納旨被 仰渡、是又奉畏候、仍御請証文差上申所如件、
享和元酉年三月八日
中村八太夫御代官所
武州葛飾郡松伏村
庄右衛門後家はつ
下女 きよ
百姓 太郎兵衛
喜兵衛忰 吉五郎
甚左衛門忰 竹右衛門
清左衛門忰 岩次郎
惣右衛門忰 伊三郎
半蔵忰 勝五郎
百姓代 沢右衛門
年寄 彦左衛門
名主 民弥
大川戸村
名主 三郎兵衛
年寄 善九郎
御奉行所
右菅沼下野守様御掛り