三七四 文政元年八月 大沢町旅籠屋長八一件裁許請書

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(『御用書留』大沢福井家蔵)

 大沢町食売旅籠屋長八吉川村江立障候一件裁許

  差上申一札之事

武州吉川村千蔵同居喜八方江、同国越谷宿大沢町太【カ】四郎事長八并同人方ニ同居候由之勘蔵、増森村八五郎同人弟善四郎、平沼村繁蔵事藤右衛門、勇蔵事長八、西方村芳蔵事与兵衛、其外面体不見留者四五人一同長脇差を帯踏込及狼藉、其場ニ居合候神田山本町代地孫兵衛店医師元碩外弐人江疵為負、元碩ハ致即死候段吉川村御代官吉岡次郎右衛門様江申立、大沢町之義ハ大貫次右衛門様御代官所ニ付、次右衛門様ゟ御掛合有之夫〻於場所ニ御糺之上、御双方ゟ当 御奉行所様江御差出ニ相成候処、勘蔵ハ無宿ニ而行衛不相知、八五郎・善次郎・藤右衛門・勇蔵事長八・与兵衛ハ逃去行衛不相知候間、銘〻親類村役人共江日限尋被仰付置候内、与兵衛ハ立帰候ニ付引合之者江も一同再応御吟味之上左之通被仰渡候、

一長八義同国吉川村千蔵同居喜八女房なを義、武州草加宿食売奉公いたし居候砌、同人と及蜜通女房ニ致度存候処、其節なを主人方へ相立候給金等ニ差支存寄通不相成中絶罷在候内、なを義喜八女房ニ相成候趣承、心外ニハ存候得共なをへ承合候上得心も致候ハゝ、喜八方江なを引取候節、同人主人江昔八ゟ差出候給金之分同人江差遣、相対之上なをを可貰請と存度迄同人江咄合候処不承知ニ付、其儘打過候迄之義ニ而、なをを誘引出呉候様同国増森村八五郎外壱人江相奨、又八・八五郎其外之者共一同喜八方江踏込及狼藉候義ハ無之候共、なを之執心ニ存候段八五郎外壱人江咄聞候ニ付、右之者共度〻喜八方江罷越内証ニ而なをを可連出と致成、其上徒党いたし喜八方へ踏込、其場ニ居合候神田山本町代地玄碩外弐人江疵為負、玄碩ハ即死致候次第ニ相成始末不届ニ付、中追放被 仰付候、

   但御構場所徘徊致間敷旨被 仰渡候、

一与兵衛義武州吉川村千蔵同居喜八方へ罷越及狼藉候義ハ無之候共、無沙汰ニ致他行候段不埒ニ付、急度御叱被置候、

一なを・長吉其外先達而御吟味ニ付被召出候者共ハ一同不埒之筋も無之、御構無御座候間、今般不罷出者共江も其旨最寄村役人ゟ申通、且元碩并武州彦乙村仲右衛門方へ雇置候三次郎、死骸は勝手次第可葬旨、彦乙村ヘハ是又最寄村役人共ゟ可申通旨被仰渡候、右被仰渡之趣一同承知奉畏候、若相背候ハゝ重科可被 仰付候、依之御請証文差上申処如件、

          大貫次右衛門御代官所

           武州埼玉郡越谷宿之内

            大沢町弥次兵衛地借

  文政元寅年八月五日  大四郎事 長八

            右宿役人惣代

              年寄  弥右衛門

          吉岡次郎右衛門御代官所

           同州同郡西方村

            百姓芳兵衛事

                  与兵衛

            村役人惣代

                  喜左衛門

          同人御代官所

           同州葛飾郡吉川村

            百姓干蔵方同居

                  喜八

              右女房 なを

            右村役人惣代

                  斎兵衛

           神田山本町代地孫兵衛店

                  長吉

              五人組 茂兵衛

              名主  孫兵衛

 御奉行所

  右御掛リ榊原主計頭様

 右長八義同所ニ相成申候、大貫次右衛門様御手代酒

 巻浅蔵殿被成御越、入札被仰付長八家財小道具付金

 壱両壱分之御払ニ相成申候、以上