(『往還御用留』大沢福井家蔵)
天保五申午年六月十七日
会津若松馬喰町出生
石川屋宗治右衛門事 宗助
贋銀一件 当午五十三才
右同人妻 りわ
右同人養女 ちと
右宗次右衛門義会津出生、同人妻りわ義越後沼垂町孫七娘、同人養女ちと義会津馬嶋□妹ニ而宗次右衛門姉之子也、
右惣助事当町茗荷屋政右衛門方江夫婦連ニ而、りわ妹お百方江尋参り、当町ニ居付候年文政元寅年九月廿二日、右政右衛門請人ニ而向土蔵明キ有之候所かし渡シ申候、右宗助事去巳九月越後江奉公人抱方ニ【(欄外注記)十八日出立十二月二日迄会津江止宿】参リ候節、会津表ニ暫逗留、其内宗助弟宗吉義宗助江申談候哉、当三月中宗助越後国ゟ食売奉公人五人連帰居候所、同四月十日頃弟宗吉、錺師相之助与申者、会津様御上屋鋪奥勤致居候斎藤ちさ殿弟之由連参リ、相之助は錺渡世相始、宗助は塗渡世兄之方江手伝罷在候、六月十四日江戸山王祭礼見物ニ罷出候所、馬喰町壱丁目足毛屋林蔵方ニ止宿致居、十六日朝大工吉太郎・宗吉・相之助小伝馬町ニ而被召捕、翌十七日朝宗次右衛門被召捕候一件始末、左之通相記置申候事
右宗次右衛門、六月十七日榊原主計頭様御組定廻リ山本兵太夫様御出、宗次右衛門召捕書面差上候次第、
壱 覚
午五月十六日ゟ同六月五日迄
一銭五貫三百五拾文 小松屋覚右衛門
内壱分一朱[弐朱銀/壱朱銀]ニ而請取申候
午六月六日ゟ同月十三日迄
一同弐貫六百六拾四文 亀沢屋甚兵衛
内壱分弐朱[弐朱銀/壱朱銀]ニ而請取申候
午四月十九日ゟ同五月八日迄
一同三貫弐百文 大松屋権右衛門
右同断
午四月廿五日ゟ同六月九日迄
一同四貫九百三拾八文 小川屋 新八
内金弐分一朱[弐朱銀/壱朱銀]ニ而請取
四口〆銭拾六貫百五拾四文
右は当宿権右衛門店惣次右衛門方ニ罷在候相之助、当宿旅籠覚右衛門外三人方江止宿之節遣払候旅籠代并酒食代取調候処、前書員数之通相違無御座候、此段御尋ニ付奉書上候、以上
伊奈半左衛門御代官所
武州埼玉郡大沢町
天保五年午六月十七日 年寄 正右衛門
同 伊右衛門
同 弥平太
問屋 宗弥
名主 太郎兵衛
榊原主計頭様御組
山本兵大夫様
〆
右御召捕ニ相成、稲葉屋次左衛門方御宿ニいたし、酒食等差上代銭三貫四百四拾八文相懸リ申候、内金壱分宿方銭壱分は 【ママ】
右書面山本兵太夫様手切ニ而不用ニ相成申候事、同日夕七ッ時惣次右衛門引立ニ相成、千住宿泊、年寄正右衛門・小川屋新八附添、[是は大工吉五郎世話致置候間内意有之、引渡候ニ付御慈悲願致可中旨申渡]
弐 乍恐以書付奉願上候
伊奈半左衛門御代官所武州埼玉郡大沢町百姓新八・年寄正右衛門奉申上候、今般当町権右衛門店惣次右衛門并同人方ニ居候錺師渡世相之助・塗師宗吉、百姓清吉地借新八方ニ居候大工渡世吉太郎、右四人之もの、如何之風聞入御聴ニ御召捕ニ相成奉請御取調一同奉驚入候、勿論惣次右衛門始外三人之者之義、於町内何ニ而茂風聞等及承候義更ニ無之、尤相之助・惣吉・吉太郎義は昨今之義ニ候間、悪説等決而無御座候、尤惣治右衛門義は妻子も有之何共歎ケ敷奉存候間、一同相談之上惣代兼御憐愍之程奉願上候、何卒以 御慈悲御吟味相済候上は、私共江御引渡被成下候様奉願上候、以上
天保五午年 伊奈半左衛門御代官所
六月十八日 武州埼玉郡大沢町
家主百姓権右衛門煩ニ付代
百姓 新八
右同断
年寄 正右衛門
榊原主計頭様御組
山本兵太夫様
大八木七兵衛様
豊田礒右衛門様
田辺平左衛門様
〆
右十八日深川嵯峨【佐賀】町番屋ニ而御吟味ニ御座候間、御慈悲願差上申候、書面茶屋ニ而認、入用三朱ト百文遣払申候、
三 乍恐以書付ヲ御訴奉申上候
当御代官所武州埼玉郡大沢町役人惣代年寄正右衛門奉申上候、当町内百姓権右衛門店惣次右衛門方ニ居候惣吉・相之助、并同町清吉地借新八方ニ居候吉太郎右三人之者共義、当月十四日自用在之候趣ニ而出府仕候処、於出先 榊原主計頭様御組山本兵太夫様御召捕ニ相成、一通リ御礼請候砌、右宗次右衛門身分之義申立候由ニ而、同人義郎十七日御出役有之子細不存是又御召捕ニ相成、其砌私共江も御糺有之、尚追而可被為在御沙汰旨被 仰渡候間、此段御訴奉申上候、以上
右町役人惣代
天保五年午六月十九日 年寄 正右衛門
伊奈半左衛門様
御役所
右は御代官江届書之事
四 乍恐以書付奉申上候
武州埼玉郡大沢町年寄四郎兵衛奉申上候、今般当町権右衛門店惣次右衛門ゟ、越谷宿藤や茂兵衛方江質入いたし置候内、請戻候分金高取調可申上旨被仰渡候間、早速取調候処、左之通リ
午六月朔日入
一元金弐両也 紬太織しま女帯外六品
当月十四日出ス元利金弐両与銭弐百文
午六月八日入
一元金壱両三分弐朱 竜門小紋単羽織外七品
同月十四日出ス元利壱両三分弐朱銭五百十四文
但シ元金を不残銀壱朱ニ而利足は銭ニ而請取候由
右之通請戻シ候趣申聞候間、此段書付ヲ以御訴奉申上候、以上
午六月廿日 伊奈半左衛門御代官所
武州埼玉郡大沢町
町役人惣代
年寄 四郎兵衛
榊原主計頭様御組
大八木七兵衛様
豊田礒右衛門様
田辺平左衛門様
山本兵太夫様
右書付山本兵太夫様御宅江差上申候事
〆
右は名主与我等江内〻被仰聞候間、出質入質共藤屋儀兵衛方ゟ書面受取、江戸江罷出候節内〻伺之上、前書弐口斗書上申候事、
五 乍恐以書付ヲ奉申上候
武州埼玉郡大沢町役人惣代年寄四郎兵衛煩ニ付代民蔵、百姓権右衛門煩ニ付藤吉奉申上候、私共町内権右衛門店塗師職惣次右衛門并同人方ニ居候宗吉・相之助与申もの、怪敷趣ニ而当御組御廻リ方衆ニ被召捕候段及承奉驚入候、然ル所右三人之内宗吉・相之助右両人所持品別帳之通私共江預リ置候間、右品持参御訴奉申上候、何分 御慈悲之御沙汰奉願上候、以上
天保五年午 伊奈半左衛門御代官所
六月廿三日 武州埼玉郡大沢町
役人惣代年寄四郎兵衛代
民蔵
百姓権右衛門煩ニ付代
藤吉
御奉行所様
六 覚
一大金槌 壱挺 一鴈口はさミ 壱丁
一やすり 七本 一木綿さいふ 壱ツ
一大はさミ 壱挺 一銀流しきせる 壱丁
一小はさミ 壱挺 一絵の具 品〻
一きり 壱本 一銀摺落し 壱包
一平やすり 三本 一絵筆 品〻
一小金槌 壱挺 一細糸[花色/紺] 壱包
一金きり 壱本 一華提たはこ入 壱
一金しき 壱ツ 一銀流しきせる共
〆拾七品柳こりニ入風呂敷ニ包
右相之助所持之品
一くだしゆばん 壱つ 一しんちう矢立 壱ツ
一古足袋 壱足 一革きせる筒 壱本
一木めんさいふ 壱ツ 一火打道具 壱
〆六品、手風呂敷ニ包
右宗吉所持之品
右之通ニ御座候、 [権右衛門/年寄代]兼
午六月廿三日 四郎兵衛
足毛屋林蔵方ゟ差出ス
六月廿日江戸馬喰町壱丁目足毛屋林蔵方ニ、正右衛門新八我等御慈悲願ニ罷出候所、当日茅場町大番屋江囚人四人惣次右衛門・相之助・宗吉・吉太郎上リ居候ニ付、御慈悲願差上申候所、吉太郎は御赦免、外三人之者共入牢被仰付候、牢内つる惣次右衛門壱両、相之助三分、宗吉三分、右宗次右衛門は宿方柏屋遣し候金子、相之助・宗吉義は自分持居候ヲ以つるといたし候由、出方之忠四郎申候、茅場町待合岩附屋入用三朱、右同夜帰宅仕候、
〆
六月廿四日榊原様御番所御呼出し、依之請人正右衛門家主権右衛門代慶三郎遣し申候、飛脚賃壱貫弐百文
七 乍恐以書付奉申上候
一武州埼玉郡大沢町旅籠屋正右衛門并百姓権右衛門煩ニ付代慶三郎奉申上候、今般当町内百姓権右衛門店へ罷在候惣二右衛門并宗吉・相之介右三人之者共怪敷義ニ而、当御組御廻リ方御役人衆江被召捕、依之右宗吉相之助所持之品持参、昨廿三日御訴奉申上候へは、并外弐人之もの当町内江差置候始末如何之手続ニ候哉之旨御尋ニ御座候、
此段正右衛門文化十酉年中越後国蒲原郡沼垂町百姓孫七娘百与申もの食売下女ニ相抱罷在候処、其後当十七年己前文政元寅年九月中、百実姉りわ同人夫惣次右衛門両人義、右百を尋参り住居いたし度段申聞候迚、百ゟ正右衛門相頼候ニ付、内実相糺候所、右惣二右衛門は会津出生ニ而塗師職渡世ニ有之、越後国江罷越りわと夫婦ニ相成候由ニ付、依而は相違も有間敷与存、当町権右衛門店借受差置候義ニ御座候、然ル所当四月中相之介・宗吉両人義宗二右衛門を尋参、宗吉は宗次右衛門弟之由ニ而相之助ヲ同道連参、全当分相対ニ而同居致居候内右次第ニ至リ、始末奉蒙御尋一同奉恐入候、何卒以 御慈悲御憐愍之御沙汰奉願上候、以上
天保五甲午年 伊奈半左衛門御代官所
六月廿五日 武州埼玉郡大沢町
旅籠屋 正右衛門
同町百姓権右衛門煩ニ付
代 慶三郎
同町年寄
四郎兵衛
御奉行所様
右御掛リ三村吉兵衛様御吟味之所、囚人共申立之通相違無之候ニ付、帰村可致候旨被仰付候、
此節江戸神田紺屋町下金や、馬喰町足毛屋林蔵被召出、下銀買取候始末御尋ニ御座候由、
七月二日よ【夜】八ツ時、馬喰町足毛屋林蔵方ゟ、牢内ニ罷在候ぬし屋惣次右衛門自筆の手紙、柏屋・めうがや・大松屋名当の手紙来、牢見舞外金子約束いたし候由申遣、四丁の吉左衛門殿ゟ借受遣シ被下度由申、万一相成兼候ハゝ一同一味之様無たいニ申立引合ニ可出由、此已前牢見舞之義女房方ニ而可致様承及候、依之七月四日朝慶三郎江金壱両弐分遣候所、足毛屋江壱両自分弐分取込之由、
七月六日朝七ツ時帰宅又〻牢内ゟ手紙三通、内壱通四丁の吉左衛門殿江金五十両借呉候様、内壱通柏屋松屋・めうがや江借受世話致呉候様申、同壱通は慶三郎殿はしんせつのへんし、外くミ者はしん外なるへんしヲ遣シ候抔申送リ、全慶三郎足毛屋相談之上右之始末ニ候哉、依之七月六日夕四丁の吉右衛門殿・めうがや正右衛門殿出府、麻布江里川助左衛門殿義正右衛門こん意之由、右牢内ゟ手紙参リ之始末金子遣シ候而宜敷候哉伺候所、相構申間敷旨被申候、以来手紙持参候ハゝ其人留置訴出可申旨ニ御座候、
八月七日夜来もふかく、神田無宿大坂入墨直次郎義五月廿三日入牢八月二日出重追放御構状壱通持、宗次右衛門与合牢致居吉右衛門・弥平太ゟ、牢見舞無之ニ付はい出シ願致候趣申之候、牢名主青山百之介与申者居遠嶋裁許之由、依之牢内江金子呼寄致度由咄シニ御座候間、四百文直次郎江呉、
八月八日江里川助左衛門殿ゟ使来、牢内ゟ度〻紙面出し候分不残差出可申旨、依之吉左衛門江談可申所江戸表江罷出候ニ付紙面差遣呼寄、牢内惣二右衛門ゟ来候紙面三通差遣シ申候処、麻布薮下名主三ノ輪重兵衛江相渡、夫ゟ山本兵太夫殿江見せ候由、八月九日右一件茗荷屋近之介江三両渡、
八月十二日申渡、十三日大沢泊佐州水かへ人足拾四人、其内八王寺無宿虎吉合牢致候贋銀一件、惣次右衛門八月十一目病死致候由咄、
八月十三日茗荷屋近之助江里川ゟ帰リ手紙三通之受取箕輪重兵衛殿ゟ受取候事返事来、金子弐分弐朱吉右衛門江返ス与申由、
八月十四【三カ】日よ神田無宿直二郎来彼是申、只返ス、正右衛門立会、
八月十四日町御奉行榊原主計頭様ゟ御差紙、大沢町弥平太、四丁の村吉左衛門村役人差添罷可出旨、
同十四日よ【夜】弥平太・吉左衛門差添四郎兵衛・佐左衛門罷出申候、同断近之介罷出ル、右は江里川様ゟ公用人天利右仲江内〻願置候趣、且吟味掛リ三村吉兵衛様江茂願置候由、然ル所右様差紙来候は行届兼候ニ付、又〻近之介同道致候事
同十五日弥平太・吉左衛門着届、
同十六日御呼出し御懸り魚つり病気、
同十七日明十八日御前御呼出し突合せ吟味申付候旨御懸リ申渡、
同十八日御呼出シ弥平太・吉左衛門与相之助・宗吉呼出突合せ申候所、全申あけニ相違無之旨相訳り申候由、
同十九日弥平太殿吉左衛門殿ゟ突合せ吟味之手紙披見、同返事遣ス、但宿小伝馬町三丁目佐渡屋久兵衛方止宿、
廿三日御呼出シ廿四日書面差上、廿五日御聞済帰村被仰付候由、
廿七日弥平太殿・吉左衛門殿帰宅、
九月九日小伝馬町三丁目佐渡屋久兵衛方ゟ紙面、名主太郎兵衛・柏屋弥平太江来、家主権右衛門可罷出旨、依之九月九日夕五ツ時出、十日暁七ツ時宿着御支配江届、
九月十日御番所江着届明十一日五ツ時可罷出旨被仰渡候、
同十一日朝相之助・宗吉引廻し之上はりつけニ相成申候、同日御番所江罷出候所、神田下金や・馬喰町足毛屋茂罷出、下金や下金代銀七百何十目御取上之上重過料、足毛屋林蔵義三貫文過料被仰付候、然所自分御呼出シ無之候ニ付、伺候所控居候様被仰渡依之夜ニ入相待候所、被仰渡候趣、
宗次右衛門義御吟味中病死致候ニ付、妻子御構無之、宗吉・翔之介義今日はりつけ被仰付候ニ付、宗次右衛門方ニ宗吉・相之介預リ有之候ハゝ、御支配ゟ御糺有之候節差出可申旨被仰渡候、御掛三村吉兵衛様、
同十二日松井町浜の屋昼よ【夜】吉左衛門ト遊、十三日御支配江届、
乍恐以書付奉申上候
武州埼玉郡大沢町本陣権右衛門奉申上候、私義今般榊原主計頭様ゟ御呼出ニ付、其段御届申上罷出候所、昨十一日被召出、私持地所ニ建置候家作貸置候惣次右衛門与申者方ニ、国者之由ニ而渡世向稼之ため当夏中逗留罷在候相之助・宗吉与申者両人義、座違一朱銀取拵候趣入御聴被召捕、猶惣二右衛門儀も被召捕、一同入
牢被仰付、尤御吟味之上惣次右衛門儀は御吟味中病死、相之介・惣吉両人は贋銀拵候趣申立、依之両人共昨十一日磔仕置被仰付候間、其旨可存段被仰渡候、且又惣次右衛門家財并妻子等御構無之、相之助・宗吉両人之者共逗留中、所持之品惣二右衛門家内ニ預リ候ハゝ取調差出候様是又被仰渡候、依之此段奉申上候、以上
天保五年九月十三日 当御支配所
埼玉郡大沢町
本陣 権右衛門
伊奈半左衛門様
御役所
右御役所江届候所、藤沢兼右衛門様御聞届ニ相成申候、十四日帰宅仕候、吉左衛門殿弥平太殿同様内〻罷出弥平太拾○ 吉左衛門殿弐十五〇遣払申候、九月廿四日江戸馬喰町大坂屋治兵衛方江、御支配御役所ゟ相之助・宗吉所持之品有無否可申上旨被仰付候、江沢方江飛脚参リ、賃七百文廿五日朝渡候、
乍恐以書付奉申上候
武州埼玉郡大沢町役人惣代年寄正右衛門奉申上候、当町権右衛門店惣治右衛門方同居相之介・宗吉并右惣治右衛門共、先般榊原主計頭様江御召捕ニ相成御吟味中、右惣治右衛門は病死いたし、相之助・宗吉義は御仕置被仰付候、然ル所右両人諸道具雑物等有之候ハゝ取調可申上旨被 仰渡承知奉畏候、然ル所右相之助・宗吉所持之品〻先達而御召捕ニ相成候節、右御奉行所様江奉差上候ニ付、外ニ道具雑物類一向無御座候、依之此段御届ケ奉申上候、以上
天保五午年九月廿七日 武州埼玉郡大沢町
宿役人惣代
年寄 正右衛門
伊奈半左衛門様
御役所