三八七 天保六年八月 花火不法打揚一件

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(「砂原松沢家文書」市史編さん室蔵)

  乍恐以書付御訴訟奉申上候

           米倉丹後守領分

            武州埼玉郡砂原村

             小前惣代

          訴訟人  百姓 万平

             村役人惣代

              名主源右衛門煩ニ付

 不法出入     同    代忰 兵四郎

           前田五左衛門様御知行所

            同州同郡野嶋村

              百姓利七忰

          相手      清兵衛

          同    名主 佐吉

右訴訟人万平・兵四郎奉申上候、去ル二月中相手清兵衛親利七居宅ゟ及出火、折節西風烈敷当村江飛火、私共居宅を始都合家数拾軒其外堂社七ケ所類焼仕難渋至極罷在候、然ル処右清兵衛義如何相心得候哉、去ル七月中旬以来度〻若者共呼集自分居村ニおひて大花火相催し騷甚敷候ニ付、若手過ニ而及出火亦候類焼可仕哉も難計迷惑之旨を以、花火相止呉様相手清兵衛は勿論、佐吉一同江再応掛合仕候処、其節〻品能致挨拶候而已ニ而前同様不得止事、剰当月廿四日暮六時頃より鐘太鼓ニ而人寄いたし大花火相催候由ニ付、私共罷越様子見届候処右清兵衛重立其外名前不存者四五人ニ而、長サ五尺位丸サ三尺位与見請候花火筒凡弐拾本余立並有之、既ニ打揚候躰ニ付差留候所一円不取敢、却而悪口中訇リ、其上花火筒を投付難捨置右始末、相手之内佐吉方江及掛合候得は是以不取敢勝手次第可致抔申之無拠引取候跡ニ而、右花火同夜九時頃迄打揚折節風模様悪敷、炎焼火私共村方江散懸リ、依之銘〻居宅家根江登リ漸之儀ニ而相防候程之次第、此上何様不法相働候哉難計片時も案心相成兼難儀至極仕候間、無是非今般御訴訟奉申上候、何卒以 御慈悲相手一同被 召出、前書不法之始末御吟味之上、以来右躰花火不相催候様被 仰付被成下置度偏ニ奉願上候、以上

           米倉丹後守領分

            武州埼玉郡砂原村

             小前惣代

 天保六未年八月 訴訟人   百姓 万平

             村役人惣代

              名主源右衛門煩ニ付

         同     代枠 兵四郎

 御奉行所様

 前書之通 御奉行所様江御訴訟申上奉存候間、何卒以 御慈悲御差出被成下置候様奉願上候、以上

  未八月廿七日        右  万平(印)

                  兵四郎(印)

 地方

  御役所

   入置申詫証文之事

一当月廿四日夜我等村方之於前耕地ニ、炎焼火打揚興行御座候処、一躰其御村方ゟ先達而御差押も被成候処、若者共儀ニ而心得方不行届大興行いたし候ニ付、右打揚筒其御村方江御預之上、御奉行所様江御訴訟与して貴殿方御出府被成候所、左様御座候而ハ相手之者共ハ勿論、村役人共迄一同難儀至極仕候間、小曾川村忠左衛門殿、其御村方久右衛門殿相頼右御願筋御勘弁被成下候様申入候処、御聞届ケ被下忝仕合奉存僕、然ル上ハ右躰之仕業已来堅相慎可申候、依之詫人一同連印を以入置申、詑書証文差出申処如件、

            越ヶ谷領野嶋村

             名主佐吉

             百姓利七忰

              清兵衛煩ニ付代

  天保六未年八月廿九日   右  利七(印)

              五人組惣代

               組頭 仙蔵(印)

            小曾川村

               詫人 忠左衛門(印)

            砂原村

               同  久右衛門(印)

  同領砂原村

   [類焼人百姓/村方小前]惣代衆中

      村役人衆中