三九四 安政六年十月 大沢町困窮人浅間山集会一件

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(大沢秦野きみ家蔵)

 【表紙】

 「安政六未年十月廿八日より

   浅間山集会一件 秦野杢次郎控」

   大沢町浅間山集会日記

頃は安政六年未十月中旬より企窮人共一統相談いたし同廿九日夜寄合、九ッ時ゟ上中下三組を起し中組は上下ノ組ゟ起し、下組は上中ゟ起し一同浅間山江寄合大火をたき手わけをいたし、酒屋江は酒出せ米屋へは米出させ乱妨ニ酒食を致し候を町内一同江相知れ、早速百姓一同自身番江参会いたし、右之様子を聞居候処乱妨人参り酒何程被下米何斗被下候抔与度〻参り、町内之使を遣し持参いたさせ、右之段名主江届ケ候得は不届成者共与申、乍去仲人を出させ世わを以浅間山引取せべくや、付而は百姓でなき又は極窮人でなき者を見計、一組ニ而二人ツゝ出すへくと申され、返り候て百姓一同相談之上せわ人を出し、其より三組百姓不残正光院江参会致し掛合および候得は、窮人申けるは穀物高直ニ付日〻暮し兼、無拠寄合致し候間御百姓一統ニ而御救被下候様ニ奉願上候、仲人申けるは如何ニ候哉右窮人共願之義は、来申三月迄白米壱升ニ売被下金子壱両御借シ被下候様ニ願被下、右之趣百姓方江参り申けるは、一同相談之上百姓方之申けるは、先年天明八【ママ】年戌年砂降之節施行差出し候書面も有候得共、四十日の間米壱合安の積リニて壱人ニ付代銭五百四十文ツゝ差出し申候、此度之義ハ一統水腐ニ付大小之差別なく難渋仕候間、三十日之間米壱合安ニ致、是ニ而右之者共引取せ被下此趣を以掛合ニ及候所、以之外ニ存頭取申けるは其儘捨置被下抔与申ける、大勢事故高持をこハし或は名主江押込候抔と申仲人照光院江返り候、百姓一同江奉願上候は何卒勘弁を以安米六十日之間弐合安ニ御売被下、其外金子壱両借用致し度存候、百姓申けるは一統難渋致し候得は、出来兼候哉与申けれハ窮人共一同申けるは、御勘弁を以六十日之問白米壱合安金壱分之代リニ地代店ちん弐月分勘弁可致と申けれハ、せわ人浅間山江申けれハ以ての外の事なり、左様ならハせわ人手を引被下抔と申候、右之趣百姓一統江願候間、何卒少〻御勘弁被下【置(見消し)】達而勘弁不成上は、私共気の毒ながら是ゟ手を引候なりと云けれハ、百姓一統申けるは右之趣名主江届ケ引取へくと申けれハ、せわ人左様ならハ私共江御勘弁被下候而、各様方思召を以六日の間米弐合安、元手金として壱分被下置与申願けれは、無拠百姓一同任其意候、世話人浅間山江掛合ニおよび右之様子万〻申けれハ一同承知致し御頼上候、せわ人百姓方江参り右浅間山之義は聞済ニ相成候、付而は明日金壱分被下候筈ニて双方夜明方組〻会所江引取申候、

同十一月朔日 三組百姓一統相談之上、家数を出スベし浅間山窮人家数をしらべ并ニ人数しらべ書出スベし、壱軒ニ付金壱分三組江割賦致し上組ニ而は拾壱両、中組ニ而は金弐拾弐両、下組ニ而も弐拾弐両出し〆五拾五両也、世話人江申けるは一組ツゝ出スベし、誰店何右衛門与切手札を渡し置金子と為取替ニいたし候、上組ニ而は照光院本堂南側ニ而出ス、木戸より呼込口之間ニ而帳面を見、誰店何右衛門与大声ニ而呼、縁側ニ而せわ人呼切手を取、上之間ニ而引替ニ而金子を渡し、中組は右之如くニ而本堂正面ニ而渡ス、下組は勝手上之間ニて渡ス、双方夜明方ニ引取申候、

同二日 上組ニ而は火之番会所江寄合、中組下組寄合候を待居候処、八ツ頃ニ茂相成候時、今日はつかれ候ニ付両組休と相成使者参リ候、上組ニ而は段〻様子を聞候得は鎮守日掛ニ付内〻寄合候也、是ニて上組会所を引取、

同三日 中下正光院寄合江候処、上組は火之番会所江寄合候処、其より上組より重立候者百姓惣代として参り居候、其ゟ上中下三組一統相談致置、右日掛之義は如何ニ候哉与上組ゟ中之組江掛合ニおよび候得は、中組申けるは早速下組江伝へけれはことごとくとうはく【当惑】いたし、様〻の咄し抔致し居けれハ、上組猶〻取急き御聞被下候様申けれは、早速下組江伝へ候得は無拠相【ママ】拶致し、上組ニ而は聞よ【リ脱カ】早く右様御承知ニ候ハゝ役人江届ケ、付而は壱組ニ而弐人ツゝ参り候与相談ニ相成、直様罷出三組相談ニ相成候得は、我等義は少茂申分御座なく候ニ付、下役中江届ケ候哉与御下知ニ付、御役人中江行届ケ其より越ヶ谷ならや新八殿方江日掛預ケ金之内借用致度義申出候処、番頭申けるハ右金子之義は江戸店江預ケ置候ニ付、早速ニは出来兼候間金五十両位ニ候得は我等立替可申候、又は何ほど位御入用ニ御座候哉、三組惣代申けるは凡弐百両前後御返し被下候、答番頭左様ニ御座候ハゝ少〻日数御用捨被下、何れ江戸店へ申入調達為致可申候、是ニて惣代暇仕候て正光院江帰宅いたし一同江伝へ候て引取ニ相成候、明四日朝寄合右浅間山諸入用相調付而は越石一同江相談いたし、高割ニ致し候与極メ上組惣代之者会所江引取一同待入右之義承り千万説入候、会所残り候者共風分ニ聞およびけるハ、前日下組ニ而はたごや仲間寄合といつわり、三組寄合は御休被下抔と申置て壱組ニ而越石持越ヶ谷四丁野佃屋伊右衛門・紺屋吉右衛門殿方江掛合、下組会所江呼よせ此度施行出すニ付、高割ニ相成候左様思召被下与申けれハ慥ニ承知仕候と申候、其噂聞及候者有之、付而は是より佃屋・紺屋江懇意成者を内〻ニて聞たゞしつきとめ帰りける、此夜八ツ時我家江引取候、

同四日 朝より寄合致シ候対談ニ付、一同自身番江参り七ツ時頃迄待、中組江使を以聞候得は、今日は仲間寄合ニ付御休被下与申付一同引取候、

同五日 上組一同寄合両組江掛合候間、両組申義は今日段〻一統寄合両組江相談仕べく之所、今般日掛御借被成候得は、窮人共江茂御かし被下候抔与申やから出来候ニ付無拠手間取候、右之者共有之候ハゝ三組一同地主江相断浅間山連中ニおゐてハケ様申者無御座候、右之者共防方ニ相成候而引取ニ相成候、何れ明朝寄合被下候、

同六日 上組自身番江寄合候処、両組ゟ一言之咄しも無御座候ニ付、一同中組江参リ今日寄合之対談はいかニ候哉、両御組ニ而は未不参ニ付余リ不益【行カ】届き候、上組ニ而は引取申候を見兼候而、せわ人中重立候者を押江何分ニも只今呼寄何卒御待被下、早速下ニ而相拶ニおよび候義は、越ヶ谷宿・花田・増林江右浅間山入用諸勘定致し、是を越石江割苻いたし助合為致候与取極候而夜明方ニ引取申候、

同七日 上組会所江寄合八ツ時頃ゟ正光院江参リ候、右之相談ニおよひ浅間山諸入用調、或は地蔵橋組江掛合ニ及候処、殊之外組内ニ而難渋人数多有之、何卒三組ニて御相談被下候而白米八合ニ御売被下候様奉願候、此義は浅間山連中江相談いたし其上罷出候、又は先刻申上置鷺後組高畑組鎮守日掛金拾六両三分積置候段、御借用仕度与申置候、是ニ而夜九ツ時引取候、

同八日 組〻ニ而切手札書置照光院江持参致し、上組ハ□印形、中之組は[ ]此の如く、下組は○印、壱人ニ付三合之積リ、二人ならハ六合之積リ切手札[一白米六号/ 改 弐人]十一月十日より来正月九日迄右不残切手札三組の印形いたし夜九ツ時、其中江鷺後村【組】・高畑組窮人惣代として浅五郎参リ候而、御組内御願之義有之候ニ付罷出候、三組重立候者不残引取ニ相成候間追而明日之相談与申置、付而は相談ニは成兼右之趣一様申上候与答けれは、三組申けるは明朝相談之上参会致し候与申其夜八ツ時ニ引取候、

同九日 百姓一統壱軒分ツゝ反別を改上組町歩を合せ、其外窮人連印帳を拵切手引替印形取置候、上組は本尊様前ニ而取候、中組は南方上之間ニ而印形取候、下組は南之方次の間ニ而印形取候、三組残ず切手札渡し其より一組ニ壱人ツゝ惣代として金子証文を【調(見消し)】【(欄外注記)シタゝ】メ印形致し、名主江参リ右之趣申上候得は、名主申けるは我等百両之借用とは聞不申金弐百両之咄しは聞および、我百両之書面江名前を書候者誰成哉与被尋、惣代之者共とうはく致し正光院江引取一統江咄しけれは、殊之外立腹いたし此事上組ニ而は出金出来不申、譬御支配様江御願候而も日掛集金五百八拾両有之候処なれハ、いささかの借用なりと申けれハ加藤伝兵衛殿聞兼、何れニも明朝名主江申伝右御連中様方申義ハいたさせ、何卒今夜之義は御引取被下、任其意九ツ時引取、

同十日 安米買人地蔵橋三人鷺後村高畑村百姓惣代として重立候者四五人参リ、金子拾両借用致し窮人両組ニ而拾壱六割符致し候得は、十壱人之外今日ヲ送リ兼候者も有之間よろしく申伝被下、是ニて引取申候、夜八ツ時三組一統引取候、十日安米売出し早朝ゟ寄合正光院江重立候者参リ、三組相談いたし又候名主江出申上けれゝ、早速聞済ニ相成年寄中江罷出ならや新八殿江罷出借用いたすへくと申けれは、手はやニ行届き金子百両借用仕度候得共、手廻リ兼候て夜七ツ時引取候、

同十一日 双方正光院江寄合帳面をしらべ候而、夜ルならや新八殿宅江金子請取参リ候而夜八ツ時引取候、

同十二日 大沢町三組米屋中江安米助合金相渡候、

同十三日 越石四丁野村・越ヶ谷本町・中町・新町右之咄しニ相成候参リ候、

同十四日十五日 寄合之義は休候而壱組壱人ツゝ越石江罷出、右手当金安米売出し候ニ付反別割合ニ相成候、行届ケ候て引取ニ相成候、

同十六日 上組百姓一同光明院江参会致し、百姓一同寄合鎮守江御神酒を備へ法楽をあけ候、諸入用帳しらべ諸勘定致し残ず請取書ヲ取候処、銭弐拾貫三百余の掛り、此内当組内旅籠屋出入ニ付六軒之者出府致し留主中御世話ニ預り、御骨折被下謝礼与して金弐両被下難有受納仕候、是を差引残り銭七貫余弐拾人ニ割合致し壱人分三百六拾四文、家主地主は店子壱軒ニ付金弐朱、手当金壱分之内金弐朱は百姓方ゟ助合被下候、又安米売出し并助合金之義は、百姓反別割合ニ致し候、日掛之義は上組ニ而は拾八両三分ト六百文余の借用也、此割合之義は壱反ニ付銀六匁弐分四りんの割合なり、百姓名之割合義定帳を拵高ニ応し借用金高并ニ名前書帳面合せ、まへ印形三判取置候、来ル未十一月十日ゟ来ル申正月迄元利共返済可致与書印申候、是ゟ神酒をひらき引取候、同日越石江出候者上組ニ而は真蔵院、下組ニ而は鷺伝事浅右衛門、

同十七日十八日 参会休申候、

同十九日 三組重立候者正光院江参会いたし、切手札十日目ニしらべ又候窮人江渡し候、夜四ツ時引取上組は火之番会所ニて相渡し候、

同廿七日 上中下重立候者一組弐人宛参会いたし、越石江出候ニ付名主江罷出其段届ケ候、其節名主義は旅籠屋出入ニ付御支配様ゟ御差紙出候ニ付、同廿四日朝罷出候、留主中之義ニ付段〻浅間山一件を相尋、其上金壱分之義は何故出したるやと問ひられ、殊之外とうはくいたし候得共、妻子難渋ニ付達而無心ニ付差出し候、頭取之義は誰成哉与被申ほうべんを以其場を退き候とぞんし候得共、付而は三町窮人連判帳拵候与承り右之帳面を借シ被下と被申、上組申けるは帳面之義写ニ而はいかニ奉存候哉、役人申けれハ本書を見せ被下、下組は借置申候、上中ニ而も借用致し度く被申一同承知奉畏候、其ゟ増林村越石反別割之義掛合ニ参り候、右割合之義は相談致し候処、花田村水腐仕候ニ付割合不掛与聞および候、我等義も殊之外難渋致し候段花田同様ニ御願そんし候、各様方御存之通リ難渋仕候、反別割合之義は御勘弁被下置度と申、掛合之人〻右割付致し候ニ付、御助合奉願候、日暮方ニ相成相談ニおよび夜五ツ時かいり候、

同廿九日 上組宮ノ坊江参会いたし切手札しらべ其夜差出し候、

窮人共浅間山集会ニ付諸入用并組入用立払、手当金安米余荷割合帳面江慥ニ控置申候積リニは候得共、日〻之事故しかとわからず候、

           扱人  上組 長四郎

                  清吉

               中組 忠次郎

                  常吉

               下組 床長

                  勝次郎

右六人之者は浅間山集会致し候もの共より取次ニ而文句、米高直ニ付軽(経)営兼候間、当時白米百文ニ付五合七勺之所八合ニ売被下候様、并竈壱軒ニ付金壱分ツゝ遺し候様取次種〻骨折之掛合致し暮候、是ニ而相済申候、