四〇五 宝暦七年五月 出水一件

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(『旧記弐』市史編さん室蔵)

  宝暦七丑年

   丑五月出水心得方

 右は去四月中ゟ永雨殊ニ五月朔日ゟ六日迄大雨降り続、東辰巳風にて雨ふる事昼夜桶よりまけることくニして七日朝より天気よし、依之田の草取ニ出ルと言へ共六日夜中上手耕地水の出ル事大海のことく、すわ大水とてあわてゝ取テ返しゆかの仕度抔致スと言へ共大川通りは多分之事茂なし、然ル共二日夜ゟ水番人足付置候所七日朝ゟ水増方致候ニ付、村中不残罷出谷古田圦ゟ瓦曾根落圦迄巻畔仕立候処、明俵千五六百俵余遣申候、扨上手耕地之出水ハ綾瀬川堤蒲生本郷ノ宮押切候由風聞致申候得共、元は味【見】沼用水瓦吹渡井押切水平押ニ参リ候由、尤水上村〻ゟ千人程参リ其懸り之役人衆江防を立切リ候由、随而当地は葛西用水東土手ニ而巻畔仕防候処、又水上村〻ゟ切ニ参ル事日〻夜〻滞なく、依之西方村伊原村申合番人大勢付置右番へ情音次第ニ村中欠出ス事度〻ニ及、然ル共無難ニ而当村抔備足仕候、

一扨又利根川之出水は戌年出水より五尺程高キ由ニ候得共、戌年以来堤通リ上置腹付御普請出来候ニ付切所越所等無之候、尤自水之上ニ二番水にて川俣切所出来候由、八日九日ニ聞へ申候得共道法遠方ニ而大場へ押開候故か、利根川添通リ惣押、尤大水ニハ無之候得共草稲時分故水腐相成リ申候、

一扨利根川と元荒川之間は不残水冠ニ相成水腐仕候、尤麦は取上申候由、

一元荒川南根通リ弐拾ヶ村程無難ニ而夫より南は綾瀬川并小塚原川之水にて水腐仕候、

一十日ゟ川通リ水干方相見へ申候、尤川通リニ而戌年之水一弐尺程ひき【ママ】く相見へ申候、切所越所等無之此辺相たすかり申候、

一下野国飛脚便ニ承候所、山〻之砂大分ニ押出ス事戌年之ことく田畑荒地多分ニ相見へ申候由、押出候砂之高サ麦穂見へつかくれつ之由承り候、

一米相場五月十日十五日頃両ニ七斗四五升仕候、尤江戸表ハ朝夕之当用斗売買定相場一向相立不申由、尤月合ゟ六月ニ成殊外下直相成申候、戌年茂右之通り有之引下ケ申候、末〻其意可得事ニ候、

一東海道川〻大出水故飛脚之通路無之、相場不定之由風聞ニ御座候、

一五月七日水前相場五月二日市米両ニ八斗八九升九斗、五月十二日市両ニ七斗四五升、同十七日市両ニ七斗同廿二日市両ニ七斗五升ニ引下ケ申候、晩大豆百文ニ六七合、秋あわ種子百文ニ壱升弐三合是も十四五日之間、夫過候得は殊外引下ケ大分損致し候者御座候由、