四一一 文化九年三月 窮民救方廻状

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(『旧記四』市史編さん室蔵)

支配所村〻近年困窮申立は一統ニ候得共、右之内従来人少ニ而手余荒地等出来御年貢弁納いたし、又は年〻及水腐作徳無之、連年窮迫ニ至リ家作等之手入不行届様成行候茂相見江候、御救方行届追〻入百姓出来手余地無之不遠村柄立直リ、其外極困窮之者共御救被下候仕法存寄之趣申上置候所、今般其通被仰渡候、当時厳敷御倹約中右躰御入用ニ茂拘リ候儀、新規御沙汰被成下候 御仁恵之程極窮之村方ハ勿論、其余之村ニも一同難有可存、尤是迄年来御手当等無之済来候儀ニ付、一通困窮申立候而も手当いたし候訳ニは無之、一郡之内江茂響候程之困窮村〻廉立候弁納地、又は困窮村之内及老年夫妻とも無之壱人もの病気等ニ而及難儀、幼年ニ而両親并身寄之もの無之、村役人組合抔之内ニ而引請世話致、或は引請候ものも困窮ニ而養育難相成倶〻及迷惑、又は困窮之上久〻相煩薬用等之手当不行届類、近郷ニ而も難渋之躰弁居見兼候程之もの有之候ハゝ、村役人共出府序は不及申ニ、自分并手附手代廻村之砌委細書付を以申立、当村入用聊不懸様手軽ニ其始末見分いたし、時宜ニ応し手当金相渡し乍聊も難儀を救遣候様可致候、尤其年分手当金渡切候ハゝ、翌年江越相渡し候様ニも可致条、是又其旨相心得偏御厚恩之程忘却不致、為冥加老若之無差別一同申合、農業出情可致もの也、

  【文化九年】申三月 吉岡次郎右衛門 印

猶以手当金相渡し候頃合之儀は、追而相触候様可致候得共、先日一統承知之為早〻申達候、此廻状村下ニ銘〻令請印早〻順達従留リ村可相返候、以上

               埼玉郡

                     西方村

                     外村〻