四一八 安政二年十一月 越巻村外五ヵ村貯穀拝借願

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(七左衛門井出家蔵)

  乍恐以書付奉願上候

武州埼玉郡左之村役人共一同奉申上候、私共村之儀先来地低沼田等多、殊ニ村内用悪水路数多有之候村〻多、平年共雨降続之節は田畑水腐難渋罷在候処、当卯年之儀初夏之砌ハ稀成旱魃ニ而田方植付方ニ茂差支候程之儀、何分稲草生立兼種〻丹誠生育方之手当いたし、仮成之出来方ニ相成安心いたし罷有候内、六月中ゟ九月下旬迄引続大風雨有之、早稲中稲は実入中出穂吹荒臥稲ニ相成、其上素ゟ地低之場所故悪水惣越内水も相湛居、臥稲之分数日水低【底】相成萠穂水腐等ニ罷成、晩稲之分花懸中故摺穂青枯等過半出来、風痛強案外之違作ニ付、其砌始末御訴奉申上候儀ニて、小前之もの義ハ破免等相願度段申出候得共、精〻申諭漸御定免は為相保、追〻摺揚斗立、少〻不足ハ隣村ゟも買入、御年貢納辻は漸調足致候得共、収納米手払上納致、况ニ百姓平生夫食麦作は平年之弐三分通ニも行届兼候程之違作、旁以小前共夫食差支候者多心配罷有候処、去月二日夜前代未聞之大地震有之、即死怪我人皆潰家等もの候得共、屋根四壁桁梁柱等迄悉相痛、半潰同様之建家多、何レも手入不仕候而ハ住居不相成、弥上之難渋一般之天災二而、他ゟ金子等借入可取続手段工風も更ニ無御座、旁以小前一同夫食取続方必至差支迄ニ而当惑至極仕候間、何卒格別之以 御慈悲難渋困窮之始末被為聞召訳、村〻貯穀拝借窮民取続方出来候様被仰付被下置度奉願上候、以上

  【安政二年】卯十一月五日  武州埼玉郡

                 七左衛門村 年寄 利兵衛

                 大間野村  同  四郎兵衛

                 長嶋村代兼

                 西新井村  同  新左衛門

                 越巻村   名主 平助

                 登戸村   同  泰之丞

 斎藤嘉兵衛様

   御役所