四三四 正徳年中カ 大聖寺境内中道塞止願

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(『旧記壱』市史編さん室蔵)

  以口上書申上候

大聖寺境内之道壱筋御ふさき被成被下候様ニと御訴訟申上候旨趣【ママ】之事

権現様奥州陣之節小山迄被為成御発軫候之処ニ、関ヶ原蜂起之旨申来、小山より還御之砌当院被為成御一宿、不動明王江被為御参詣、今度之御一戦被為遂御本望候は知行可被為成御寄進候間、軍陣勝利御守護候様ニと被為遊御祈禱、其時之住持定伝と申仁へ其段被為 仰渡之由ニ候、然而無程彼御一戦被為得勝利候之故、件之大聖寺住持定伝と申仁致参府六拾石之知行拝領仕候、其節松平右衛門殿・村越茂介殿・善阿弥さま【か】御近衆之依為御供御取持之由申伝候、

右之由来ニ御座候故大聖寺代〻之住持存念之趣は、余寺之御朱印地ニハ相替候間 権現様之御宮致安置度と念願仕候、雖然狭隘之寺中ニ往還之道筋三通り迄御座候故 権現様之御宮安置之所、往還之道筋端ちかくハ建立難成候ニ付、寺中之分中ミち壱筋御塞候而被下候は、御宮并不動堂拝殿仁王門等迄建立仕度と、前〻之御支配衆へも前〻之大聖寺申達候、拙僧事も当院之住職昨今之事ニ候へ共、前〻之住持同意ニ右之一事遂願届度奉存御訴訟申上候、中ミち壱筋御ふさき被成被下候ハゝ、前〻之住持所願之通リ我等成就仕度奉存候、替リ之道筋等委細之儀は以絵図申上候、当村中之者何も拙僧所存之通リ無相違之旨以別紙申上候、已上

  月日           大相摸 大聖寺

 田山守右衛門殿

 松井平八殿

右は文政之度安養院書物之内ゟ見出し、乍併年号無之残 多事ニ御座候、

 【朱書】「但仁王門造立正徳五乙未十月五日、右門棟札ニ書記有之候」