四三八 寛政五年十二月 野島浄山寺口伝書

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(野島浄山寺蔵)

 【表紙】

 「慈福寺浄山寺与改名

  并口伝諸記録   」

 御改名 浄山寺

 右 御改名之儀は本尊霊験新に御座候を 神君様被聞召其地清浄に其山欝蜜【ママ】与致候故、浄山寺与 御改名被 仰付候、

一御朱印高三石 但シ壱反五畝歩 此上リ米六俵

 右 御朱印之儀は 神君様越ヶ谷江御 成之砌、天台宗ニ而相続仕来候慈福寺ニ明山補住仕居候処、以 御上使明山江右 御朱印并寺号 御改名被下置候、

 依之曹洞宗ニ開闢仕浄山寺与号来リ候、

一境内坪数八千七百坪 右境内之儀は 御朱印之表ニ境内山林竹木不入与御文言御座候、

一檀家七拾軒

 但シ小前百姓斗ニ而祠堂田地并祠堂金等無御座候、右檀家入方之儀は、正月七月其外年中諸施物等金ニ直シ凡四両程も可有御座候、

一拙僧儀当丑四月十五日ニ入院仕候、

 但先住変事ニ付、去ル子七月ゟ当丑四月迄無住ニ御座候、

一安永七戊年拙僧ゟ三代已前賢秀代、湯島於天神社内開帳仕候節、参銭奉納物等出入勘定仕、相残リ候分金弐百三拾両ト銀弐貫六百匁余御座候、

一天明五巳年右賢秀代於右同所開帳仕候節、参銭奉納物等出入勘定仕、金五拾六両ト銀壱貫三百匁余御座候、

一本尊彫刻之儀は、慈覚大師壱木三躰之聖像慈恩観世音、慈福地蔵尊、慈林薬師如来此三躰ニ御座候、

 右慈覚大師は下野之人ニ而、日光権現江参詣之節無橋ニ而川手前ニ二夜被致入定、明ル三日目之早朝大木両岸ゟ相臥居候を見而渡度被思召候得共、其木滑ニして難渡、其辺草苅居候百姓長兵衛与申もの相頼、草を敷被相渡候而則権現江参詣契約有りて、中禅寺を開闢し、其後亦廻国之者有之心願を相立、庭前之李之実壱粒虚空江投、其落所に壱宇造営之志被致決定、夫より八年目弥廻国之節武州崎西郡大沼之脇ニ至リ李之花開盛仕候を見而、是れ吾れ八ヶ年已前於日光山虚空江投李や、此処宜造立壱宇与今之岩槻慈恩寺ニ御座候壱宇成就之後、本尊観世音被致彫刻候壱木之内根は慈恩寺観世音、中は慈福寺地蔵尊、梢は同州足立郡里村之内慈林寺薬師如来ニ而、三寺共皆慈覚大師之慈之慈を取り、寺号之頭字ニ慈字を被附置候事歴然ニ御座候、

 右本尊由緒記録等は、三寺同開闢ニ而天台宗ニ御座候間、慈恩慈林両寺ニは委敷記録等可有御座候得共、慈福寺儀は 八幡太郎義家公奥州征伐之節御通路故、兵火之為に諸堂焼却仕、其節地蔵尊像之腰下少焼居候程之儀ニ御座候故、記録等一切無御座候、前書之通リ少茂相違無御座候、以上

            武州埼玉郡野嶋村

 寛政五癸丑年十二月       浄山寺

               按十五世円静和尚御代と存候、

 寺社

  御奉行所

   御役人中

   但板倉周防守殿御役中之事