四四八 安政四年九月平方林西寺御朱印請取一件

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(平方林西寺蔵)

 【表紙】

「  安政四巳年九月記

 嘉永七寅十月御改相済四ヶ年目

  御朱印頂戴御渡御場所留

        廿六主 常誉檀梁代」

  御朱印請取一件留

一安政三辰年十月、御代官林部善太左衛門殿ゟ名主方へ向天保度 御朱印請取之場所書出候様廻文を以申来ル、依之当方ゟ下書名主六郎左衛門方江認遣ス、左之通

  乍恐以書付奉申上候

            武州埼玉郡平方村

             浄土宗京都知恩院末

一御朱印高弐拾五石        林西寺

 右は天保年中御改之節 御朱印頂戴之御場所并年月等左之通

  御渡御場所   日光道中大沢宿

  御代官     伊奈半左衛門様

  天保十二丑年五月十二日請取

 右之通相違無御座候、以上

  安政三辰年十月     同村名主 六郎左衛門

 林部善太左衛門様

     御役所

 右之下案六郎左衛門方江遣此通リニ而相納リ候由

一安政四巳年八月十九日砂間組名主孫三郎方ゟ、定使を以回章届来ル左之通

      林部善太左衛門役所

        武州埼玉郡大泊村始メ

 今度寺社江被下候 御朱印来月初旬廻村相渡候間、御朱印地寺社御先判持参粕壁宿旅宿江罷出、尤寺判持参可致若寺社之内病気差合等ニ而難罷出、名代之もの差出候分は其訳住職之ものゟ書付差出、無住之分は本寺触頭断書付を以本寺又は法類組合寺之内名代差出候様、村役人共ゟ右寺社江可及通達候、

一寺社之内名代差出候分は、其村役人共ゟ茂前書断書付同様之書面可差出候、

一御朱印相渡候節村役人之内壱人、名主組頭印形持参寺院一同可罷出候、

一廻村日限之儀は追而寺社江直ニ可相達条、可得其意候、右之趣得其意村名下江令請印早〻順達従留リ村可相返者也、

         武州埼玉郡

 巳八月十六日   大泊村 平方村 粕壁宿

         同葛飾郡

          小淵村 幸手宿 内国府間村

 右之通之回章持参いたし候ニ付、早〻留記回状は返却いたし遣候、定使江百廿六文回章賃相渡し被下候様孫三郎申越即渡遣ス、右ニ付請取ニ直参いたし候節供立左ニ

 御朱印橿台持共三人 ○杖払子供ニ而    弐人

 先箱手代リ共 三人 ○御朱印守護名主ニ而 帯刀 壱人

 陸尺     五人 ○若党        弐人

 伴僧    壱人 ○朱蓋持雨天ナレハ長柄 壱人

 打物持   壱人  ○御草リ取      壱人

 押     壱   ○合羽籠       弐人

 御先番壱僧旅宿江相詰メ送迎其外諸般世話いたし可申事

 右直参ニ候ハゝ供立如此ニ候処、此度方丈病気故代僧差出請取可申心得、御直参請取之節人足は村村役人ゟ檀中へ申付呉候事

    武蔵国埼玉郡 大泊村  安国寺

           平方   林西寺

           粕壁   最勝院

           小淵   浄春院

           幸手   宝持寺

           同    聖福寺

           内国府間 正福寺

御朱印可相渡旨被仰出候間、来ル九月七日五ッ時粕壁旅宿江 御先判并寺判持参村役人江通達之上、一同前日夕迄ニ可罷出、且病気之分ハ当住之断書付、無住之分ハ本寺触頭断書付を以、本寺又は法類組合寺等之内名代可被差出、此廻状刻付を以順達留ゟ可被相返候、已上

  八月廿七日 林部善太左衛門役所

 右之通申来ル、但し廻状賃七百五十六文、壱軒分百八文ッゝ割合差出ス、

 右ニ付寺号之下江縄札いたし印形其下へ八月廿七日申上刻次江相廻スと認粕壁最勝院へ為持遣し候事

一九月朔日南名主六郎左衛門・上名主喜三郎・同年寄源八右三人七ッ時相招酒出之、来ル七日御朱印御渡ニ相成候間、其節罷出被呉候様通達いたし、相頼置候事

一九月六日夕方ゟ名主六郎左衛門・喜三郎両人粕壁御代官旅宿江御機嫌伺として罷出候ニ付、其節病気届書付弐通為持遣ス左之通

  以書付御届申上候

一拙寺儀当夏以来癰瘡相煩手臥罷在候処、未全快不仕候間今度為 御朱印頂戴参上仕兼候、因茲代僧弟子興然江御渡被下置候様仕度奉願候、此段御届申上候、以上

  安政四巳年九月六日

           武州埼玉郡平方村

                林西寺 印

 林部善太左衛門様

      御役人中

 又壱通名主ゟ差出左ニ

  乍恐以書付奉申上候

一当村林西寺義夏以来癰之腫物ニ而久〻平臥罷在候処、此節ニ至リ今に全快不仕候ニ付、此度為 御朱印頂戴参上仕兼候間、名代弟子興然江御渡被下置候様仕度奉願上候、右之段乍恐書付を以奉申上候、以上

           武州埼玉郡平方村

  安政四巳年九月六日    名主 六郎左衛門 印

            同  年寄 清左衛門 印

 林部善太左衛門様

     御役人中様

 右弐通名主両人江為持遣シ、掛リ役人江内見ニ入御代官江差出候処、右は御入念之御書付御届之趣委細承知いたし候もの返事之由、名主両人夜四ッ半頃粕壁ゟ帰リがけ勝手へ右之段申置候事、

一七日大雨未明ニ嚏【カ】覚いたし、代僧興然之代リ藤塚東国寺香衣・五条・名主両人・年寄壱人外ニ供廻リ八人正六ツ時相揃、朝飯為喰罷出候事、供立左ニ

御朱印櫃持台持共 三人  侍     壱人

草リ取      壱人  先払    弐人

箱持       壱人  名主年寄  三人

 但此度は壱人余分也、名主ト年寄弐人出レハよろしく候、

代僧実印持参

 御代僧東国寺共都合拾弐人、右は前以粕壁宿檀中乎方屋平五郎へ下宿之処相頼置候処、今晩 宮様御通行御泊リニ付、本陣も塞リ候故御代官は急ニ最勝院江宿替、依之当時下宿も常住院江宿替いたし、安国寺与一所ニ相成最勝院ニおひて御朱印無滞請取候事、

一昼食弁当は拾弐人前仕出し屋へ申付候事、但し前以平五郎方ニ而掛合置呉、壱人前百文ニ而申付、右之通首尾好請取八ッ時頃一同帰寺、夕飯出し酒肴三種ニ而名主三人江為呑候事、当日宿ニ而入用左ニ

一金百疋 宿坊常住院へ ○金弐朱 問屋役人江

一金弐朱 宿内年寄へ世話料 ○九百文酒三升代

一壱貫弐百文、拾弐人上下弁当代

 但は洒弐升入用之由ニ候処、跡ゟ二升代取ニ来ル

 右は当日之入用也、但し此度は御代僧故万事手軽ニ上り候得共、御直参ニ而御請取之節は下宿其外謝礼も倍増いたし、人足も凡三十五六人余ニ相成可申候、且又此度人足八人之内五人は寺百姓御伝馬ニ而相勤、内三人は雇ひ人故謝礼差出ス

 ○弐百文ニ半紙壱帖添 若党太郎吉へ

 ○百文ニ半紙添 先払音二郎へ○百五十文 幸助へ

                  以上

一九月八日夕七ッ時案内ニ而此度 御朱印首尾能頂戴難有存候ニ付、先例ニ任せ名主五人、年寄十弐三人并 御朱印百姓近所之者都合廿六七人、其外村三ヶ寺旦御代僧相勤呉候付、東国寺旦此度之義ニ付種〻下宿等之掛合万端世話いたし呉候付、阿弥陀寺旦近末之事故称名寺都合三十人余相招き、茶碗ニ豆腐汁ニ而酒核三種有合せ之品出之、平はけんちんニ而振舞いたし候事、但御祝義として

  金百疋  村役人中ゟ

  青弐百文 称名寺

  青弐百文 東国寺

  青百文  阿弥陀寺

   蒸菓子弐重 七日下宿へ持参

   干菓子壱重 粕壁檀方中

 右之通振舞等無滞夜五ッ半頃相済

一御直参之節は末山不残御出迎ひ、村役人も四五人御出迎いたし候由ニ候得は、此度之代僧之事殊ニ終日大雨之事故其義は相断、出迎等一切無之事

一江戸ニ而請取候節は末山へ廻章差出ス、去ル何日御朱印無滞頂戴拉致候間、此段須意聴申入候、但御祝義として不及登山候趣回文差出候先例ニ御座候処、此度は近所ニ而請取候事故、右回章等差出不申候、

一御朱印請取寺院御代官所ゟ之回文ニは、七ヶ寺ニ御座候処、幸手不動院・久喜甘棠寺等一所ニ御渡ニ相成都合拾ヶ寺ニ相成候事、

 右粗手続筆記いたし候、余事ハ先前ゟ之記録ニ相 譲り略之候、已上

   請取御場所年月左ニ

 嘉永七寅年十月五日御改相済

 安政四巳年九月七日粕壁宿ニおゐて請取

 御代官 林部善太左衛門殿

          白竜山常誉上人代役僧

  安政四巳年九月記      孝禅識

  御紋附高張弐ッ新規出来

一御朱印櫃 壱  和久并泥台共

 右は是迄当山ニ櫃無之入院或ハ御朱印請取等之節、岩槻或は古河辺ニ而借用実ニ難渋千万言語道断之事ニ候、依之此度新規出来什物寄附いたし置候、後代思量し玉へ、