(西方大聖寺蔵)
覚
一天正十三年十四年之頃 権現様武州埼玉郡八条領、或ハ新方領或ハ岩付領辺江之 御鷹野御座候哉、将又此頃福嶋又八郎と申御供人御座候哉、
一天正十九年之頃、村越茂助殿并善阿弥と申御召仕御座候哉、
一古記之中ニ慶長三年ゟ五年迄之内、会津景勝トヤラン逆心之沙汰有依之 家康様并秀忠様下野迄御発向被遊候由之趣、
私尋云是ハ慶長何年ニ而御座候、
又会津陣之実【否】如何、他所之事ニ而も御座候哉
一然所ニ関ヶ原蜂起ニ付中途ゟ 御帰陣被遊候 将軍様ニハ、下野ゟ直ニ中道を江州江御登被遊由ニ而
私尋云石賊蜂起ハ慶長五年何月時分之事ニ御座候哉、又尋云 将軍様と申ハ 秀忠様之御儀ニ御座候哉、又尋云此趣ニ而ハ 権現様ニハ武城江御帰陣被遊候而 秀忠様斗中道を御急登被遊候哉、
又尋云中道と申ハ下野壬生辺ゟ上州新田江通リ候只今之横道ニ可有御座候哉、又ハ 御両君様御一同ニ武城江御帰陣之以後 将軍様ニは中仙道を御登被遊候と申訳ニ可有御座哉、
旧記入用ニ付右之故実御考奉願候、以上
当未六月上旬迄ニ承度奉存候、